黄月英こうげつえい
醜女と呼ばれて笑われた、天下一の賢妻
人物
沔南の名士黄承彦の娘で、諸葛亮の妻。名は「月英」と後世に伝えられ、正史にも演義にも本名は記されていない。黄承彦が「わが娘は黄色い髪に黒い肌で醜いが、才は君に釣り合う」と諸葛亮に持ちかけ、諸葛亮はためらわずに承諾した。里の者は「孔明の嫁選びを真似るな、承彦の醜い娘をもらうぞ」と笑ったが、夫婦は仲睦まじく、諸葛亮の発明した木牛流馬や連弩は妻の知恵が元になったとの伝説が生まれた。また伝承では、黄月英は門に仕掛けを施し、訪れた諸葛亮を木製の人形や犬で驚かせて試したともいう。演義では隆中の草庵の場面などに影が見えるのみだが、民間では諸葛亮の内助の功を担う賢妻として長く語り継がれ、才女の代名詞となった。息子の諸葛瞻は蜀滅亡の際、綿竹で鄧艾と戦って討ち死にしている。
名場面
醜女の婚礼
黄承彦は荊州の名士で、劉表とは相婿の間柄。彼は若い諸葛亮に「娘は黄色い髪に黒い肌で見栄えはせぬが、才は君に釣り合う」と告げた。才で人を選ぶ諸葛亮は即座に承諾し、里では「孔明の嫁選びの真似をするな」と笑い歌が流行った。だが諸葛亮は生涯この妻一人を愛し、二人の間に生まれた子は蜀に殉じた。
木人の門
民間伝承によれば、諸葛亮が初めて黄家を訪ねたとき、門を開けると木の犬と木の虎が飛び出し、驚いていると木の人形が茶を運んできたという。すべて娘の月英が作った仕掛けだった。諸葛亮はその才に感嘆し、後年の木牛流馬の発想は妻から得たものだと語り伝えられる。出所の確かでない話だが、黄月英の才女像をよく表している。
羽扇の由来
月英は嫁入りのとき、夫に一本の羽扇を贈ったという伝承がある。「あなたが隆中を出て劉備に仕えたとき、怒りや焦りを顔に出さぬよう、この扇で顔を隠しなさい」。諸葛亮が生涯羽扇を手放さなかったのは、妻のこの言葉を守ったからだとされる。五丈原で羽扇を手に息を引き取った諸葛亮の姿に、人々は妻の影を見た。
「怒りも焦りも、この羽扇の内に隠しておしまいなさい」(羽扇を贈った際の言葉と伝わる)
正史ではどうだった?
正史には黄承彦が諸葛亮に「醜いが才のある娘」を嫁がせたという記述が『襄陽記』にあるだけで、本人の名も生涯も不明。「月英」の名、木牛流馬の発案、羽扇の贈り物はすべて後世の民間伝承である。演義本文にはほとんど登場しないが、諸葛亮の人物像を彩る存在として広く知られている。