三三国志 英雄図鑑
蜀蜀漢の丞相

諸葛亮しょかつりょう 字・孔明

天下三分を描いた、臥龍と呼ばれる大軍師

181年〜234年(享年53)#軍師#丞相#臥龍#北伐
統率武力知力政治魅力92381009592

人物

琅邪陽都の人。幼くして父を亡くし、叔父に従って荊州へ移り、隆中の草庵で晴耕雨読の日々を送った。「臥龍」と呼ばれ、徐庶の推挙で劉備が三度訪ねてきたとき、天下三分の計を説いて二十七歳で世に出る。赤壁では呉に赴いて群儒と舌戦を繰り広げ、周瑜の計略をことごとく見抜き、七星壇に祈って東南の風を呼んだ。荊州と益州を取る青写真を実現させ、劉備が皇帝となると丞相に就任。白帝城で後事を託されてからは、南蛮を七たび捕らえ七たび放って服従させ、出師の表を奉って北伐の軍を起こした。司馬懿と知略を尽くして戦うこと数年、五丈原の陣中で病に倒れ、五十四歳で星となる。忠義と智謀を兼ね備えた、三国志最大の英雄である。

名場面

1

天下三分の計

三度目の訪問でようやく対面した諸葛亮は、劉備に一枚の地図を示した。「曹操は天の時を得、孫権は地の利を得ている。将軍は人の和をもって荊州と益州を取り、三分の一をまず固めるべし。時至れば二方面から中原を衝く」。長年流浪した劉備にとって、それは初めて示された明確な道筋だった。

2

草船借箭

周瑜は諸葛亮を亡き者にしようと、十日で十万本の矢を作れと命じた。諸葛亮は三日でよいと答える。三日目の霧の深い夜、藁人形を立てた二十艘の船を曹操の水寨に近づけ、太鼓を打ち鳴らさせた。曹操軍は霧の中へ矢を雨と射かけ、夜明けには船いっぱいの矢が集まっていた。周瑜は「とても敵わぬ」と嘆息した。

3

空城の計

街亭の敗報が届いたとき、西城にいた諸葛亮の手元には兵がほとんどなかった。そこへ司馬懿の十五万が迫る。諸葛亮は城門を開け放ち、老兵に道を掃かせ、自らは城楼で香を焚いて琴を弾いた。慎重な司馬懿は伏兵を疑い、全軍に退却を命じる。たった一人の琴の音が大軍を追い返した、知略の極みだ。

4

五丈原に星落つ

第五次北伐、司馬懿は守りを固めて出てこない。過労で病んだ諸葛亮は延命の祈祷を七日間続けたが、最後の夜に魏延が駆け込んで主灯を蹴り消してしまう。天命を悟った諸葛亮は、姜維に兵法書を授け、退却の策を細かく授けて息を引き取った。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」はこの直後の話である。

「鞠躬尽瘁、死して後已む」(身を捧げて国に尽くし、死ぬまでやめない)

諸葛亮

正史ではどうだった?

正史でも劉備が三顧したこと、天下三分の構想、白帝城の託孤、北伐の実績は確かで、政治家としての評価は極めて高い。一方、東南の風や草船借箭、空城の計は創作である。陳寿は「軍事は政治ほど得意ではなかった」と評したが、公平な政治で民に慕われたことは間違いない。