第22章曹操の死と三国の成立
英雄・曹操が世を去り、曹丕が漢を奪って魏を建てる。劉備は蜀漢、孫権は呉の君主となった。
関羽の首は呉から曹操のもとへ送られた。孫権は劉備の恨みを曹操へ向けさせようとしたのである。曹操は見抜いて関羽を王侯の礼で葬ったが、以来、夜ごと関羽の幻に悩まされ、頭痛が激しくなった。名医・華佗が呼ばれ「頭を斧で割り、風の病の根を取り除きましょう」と告げる。「わしを殺す気か」。疑い深い曹操は華佗を牢に投じ、華佗は獄中で死んだ。治せる者を自ら殺した曹操の病は、もう癒えなかった。
建安二十五年正月、曹操は洛陽で臨終を迎えた。枕元に集まった側近に、彼は天下のことより家族のことを語った。「わしの側室たちには香を分け与えよ。履物を作って暮らしが立つようにせよ」。乱世の奸雄と恐れられた男の、あまりに人間らしい遺言であった。六十六歳。黄巾の乱から三十六年、中国の北半分を一つにまとめた英雄が逝った。
跡を継いだのは長男の曹丕。だが弟の曹植は詩才に恵まれ、父に愛されていたため、曹丕は弟を疎んだ。「七歩のうちに詩を作れ。できねば命はない」。曹植は歩きながら詠んだ。豆を煮るのに豆殻を焚く、豆は釜の中で泣く、もとは同じ根から生まれたのに、なぜこれほど急いて煮るのか。曹丕は涙を流し、弟の命を助けた。参謀・賈詡はかつて曹操に後継者を問われ「袁紹と劉表の家のことを考えておりました」とだけ答えて曹丕を推した人物で、今度は新しい主を支えた。
その年の冬、曹丕は献帝に迫って帝位を譲らせた。形は「禅譲」、聖天子・堯が舜に位を譲った故事にならった美名だが、実際は臣下たちが毎日のように献帝に退位を迫った末のことである。献帝は玉璽を差し出し、山陽公として都を去った。四百年続いた漢は滅び、曹丕は魏の文帝となる。側近の司馬懿は静かにその儀式を見つめていた。
成都に「献帝は殺された」という誤報が届くと、諸葛亮は劉備に即位を勧めた。「漢の血筋を絶やさぬために」。劉備は固辞を重ね、ようやく翌年、皇帝の位に就く。国号は漢、後世にいう蜀漢である。一方、江東の孫権は劉備の報復を恐れて魏に臣従し、呉王に封じられた。彼が皇帝を名乗るのは数年後のことだが、魏・蜀・呉の三つの勢力がそれぞれ君主を戴いた形は、ここに整った。三国志の名にふさわしい時代の、本当の始まりである。