三三国志 英雄図鑑
魏諸葛亮の好敵手・晋の礎

司馬懿しばい 字・仲達

死せる孔明に走らされ、生きて魏を呑んだ鷹視狼顧の男

179年〜251年(享年72)#軍師#北伐防衛#野心家#晋の礎
統率武力知力政治魅力9560979378

人物

河内の名門に生まれ、曹操に召されたが病と偽って出仕を渋り、脅されてようやく仕えた。曹操は「鷹のような目と、首を後ろに回して振り返る狼のような顔つき」を警戒し、「兵権を握らせるな」と曹丕に告げたと伝わる。しかし曹丕は司馬懿を重用し、曹叡の代には大都督として諸葛亮の北伐を迎え撃つことになった。以後、諸葛亮と知略の限りを尽くして戦う。最後は五丈原で女物の衣を送りつけられても動かず、諸葛亮を陣中で病死に追い込んだ。だが蜀軍の退却に追いすがったところ、木像の諸葛亮に驚いて逃げ帰り、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と笑われる。曹叡の死後、曹爽に実権を奪われると十年間病を装って耐え、249年の高平陵の変で一挙に曹爽一族を滅ぼして魏の実権を握った。その孫の司馬炎が晋を建てる。

名場面

1

空城の計

街亭を失った諸葛亮は西城にいて、手元にはわずか二千五百の兵しかいなかった。そこへ司馬懿の十五万が迫る。諸葛亮は城門を開け放ち、老兵に道を掃かせ、自らは城楼で香を焚いて琴を弾いた。到着した司馬懿は城を見て馬を止める。「孔明は生涯、危うい賭けをしたことがない。これは必ず伏兵がある」。全軍に退却を命じた。琴の音が止んだ時、司馬懿は三十里も離れていたという。慎重さが裏目に出た、二人の天才の心理戦である。

2

女物の衣

五丈原で対峙して百日あまり、司馬懿はいくら挑発されても陣を出なかった。諸葛亮は使者に女物の頭巾と衣を持たせ、「戦えぬなら女の衣を着よ」と送りつける。将兵は怒り狂ったが、司馬懿は衣を受け取って笑い、使者に諸葛亮の暮らしぶりを尋ねた。「朝早くから夜遅くまで働き、罰を与える件はすべて自ら裁き、食は少ない」。司馬懿は言った。「それでは長くは持つまい」。戦わずして勝つ道を、彼は選んだのである。

3

死せる孔明、生ける仲達を走らす

五丈原で大きな星が落ちるのを見て、司馬懿は諸葛亮の死を確信して追撃を命じた。ところが蜀軍の陣から、四輪車に乗った諸葛亮の姿が現れ、旗が翻って鬨の声が上がる。「まだ生きていたのか」。司馬懿は馬を返して五十里逃げ、兜を失ったのにも気づかず、「わしの首はまだついているか」と部下に尋ねた。それは姜維が仕掛けた木像だったのである。民は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と笑った。

4

高平陵の変

曹爽に実権を奪われた司馬懿は、十年近く病と称して屋敷にこもった。曹爽が様子を探らせると、司馬懿は粥をこぼして衣を汚すふりをして、死にかけた老人を演じきる。安心した曹爽が皇帝を連れて高平陵へ墓参りに出た249年正月、司馬懿は一夜で兵を起こし、洛陽の城門を閉ざした。曹爽は降伏すれば命は助けると信じて兵を捨て、一族もろとも処刑される。七十歳の老人の、十年間の芝居が実を結んだ瞬間であった。

「死人の心は読めぬ。生者を相手にする方がよほど楽だ」と笑ったと伝わる

司馬懿

正史ではどうだった?

正史でも孟達討伐、諸葛亮との対陣、遼東平定、高平陵の変で実権を握ったことは演義と同じ。空城の計は正史にはなく、注に引かれた異説を演義が膨らませたもので、街亭の時点で司馬懿は関中にいなかった。木像で逃げた話は正史にも見え、本人が笑って応じたと記される。