三三国志 英雄図鑑
魏蜀を滅ぼした吃音の名将

鄧艾とうがい 字・士載

毛布にくるまって崖を転がり落ち、成都を陥とした

197年〜264年(享年67)#名将#蜀討伐#姜維の好敵手#屯田
統率武力知力政治魅力9278908270

人物

貧しい家に生まれ、牛飼いをしながら学問を続けた苦労人。吃音があったが、司馬懿に才を見出されて取り立てられ、淮南の屯田を整備して魏の東南の守りを固めた。やがて西方へ転じ、姜維の北伐を幾度も迎え撃つ。263年、司馬昭が蜀討伐を命じると、鍾会が主力で剣閣の姜維と対峙するあいだ、鄧艾は七百里の無人の険路・陰平道を進む。断崖では毛布にくるまって転がり落ち、木を切って橋を架け、飢えと疲労に耐えて江油に出た。綿竹で諸葛瞻を破ると、成都の劉禅は降伏する。四十年余り続いた蜀漢は、この奇襲によって滅んだ。だが功を誇って独断で蜀の人事を行ったことを鍾会に讒言され、司馬昭の疑いを招いて檻車で護送される途中、鍾会の死後に衛瓘の部下に殺された。天下の大功を立てた直後に非業の死を遂げた、悲運の名将である。

名場面

1

陰平道の奇襲

剣閣は天下の険で、鍾会の大軍も姜維の守りを破れない。鄧艾は「陰平から無人の山を越えれば、成都の背後に出られる」と進言し、自ら三万の兵を率いて七百里の険路に入った。道なき道を切り開き、崖に行き当たると、六十を過ぎた鄧艾は自ら毛布にくるまって転がり落ち、兵たちも木や縄を伝って後に続く。飢えて倒れる者が続出したが、ついに江油に出た。この奇襲が蜀の命脈を断ったのである。

2

綿竹の戦い

江油を落とした鄧艾の前に、諸葛亮の息子・諸葛瞻が立ちはだかった。鄧艾は手紙を送って降伏を勧めたが、諸葛瞻は使者を斬って応える。緒戦では蜀軍が奮戦して鄧艾の息子の鄧忠を押し返したが、鄧艾は「一戦で決めねば全軍が死ぬ」と兵を叱咤し、総攻撃をかけた。諸葛瞻は討たれ、その子の諸葛尚も敵陣に突っ込んで戦死する。諸葛亮の血筋はこうして戦場に散り、成都への道は開かれた。鄧艾は諸葛瞻父子を丁重に葬ったという。

3

檻車の中で

成都に入った鄧艾は、劉禅を驃騎将軍に任じるなど蜀の人事を独断で進めた。これを鍾会が「鄧艾は謀反の心あり」と司馬昭に讒言し、鄧艾の手紙も改ざんして傲慢な文面に書き換える。司馬昭は鍾会に鄧艾を捕らえるよう命じ、鄧艾父子は檻車に乗せられて洛陽へ送られることになった。鍾会が死んだ後、鄧艾の部下が救出に向かったが、鄧艾を恐れた衛瓘が先に兵を送り、父子は綿竹の西で殺された。

「わしは忠臣なり。ここに至るとは、白起の故事に等しい」

鄧艾

正史ではどうだった?

正史でも牛飼いから身を起こし、淮南の屯田、姜維との攻防、陰平道からの奇襲で蜀を滅ぼしたことは演義と同じ。鍾会の讒言で捕らえられ、鍾会の死後に衛瓘の部下に殺されたのも事実。吃音は正史に記録されている。後に無実が認められ、孫が取り立てられた。