夏侯淵かこうえん 字・妙才
三日で五百里、六日で千里。定軍山に散った駿足
人物
夏侯惇の従弟で、曹操の挙兵当初から従った一族の猛将。弓の腕前は魏随一と謳われ、行軍の速さは「三日で五百里、六日で千里」と兵たちに歌われた。官渡では兵站を守り、赤壁ののちは西方へ転じて馬超・韓遂の残党を追い、涼州の羌族や宋建を討って西の守りを固める。曹操が漢中を奪うと、その要衝である定軍山の守将を任された。しかし219年、劉備軍が漢中に侵攻し、法正の策で高所を取られる。夏侯淵は鹿角の柵を修理するため自ら前線に出たところを、山上から駆け下りた黄忠に一刀のもとに斬られた。曹操はかねて「将たる者は臆病さも持たねばならぬ」と忠告していたが、その勇が裏目に出た形である。彼の死によって魏は漢中を失い、劉備は漢中王を名乗ることになった。華々しい突撃と悲劇的な最期で記憶される将である。
名場面
定軍山の最期
黄忠が定軍山の向かいの高地を占めたと聞き、夏侯淵は山を下りて挑発を繰り返した。だが黄忠は法正の指示どおり動かず、魏兵が疲れて昼寝を始めた頃合いを見計らって、太鼓と鬨の声とともに一気に坂を駆け下りる。鹿角の修理を指図していた夏侯淵は、甲冑もつけぬまま振り返り、黄忠の大刀を頭から浴びて真っ二つになった。老将が魏の名将を討つという、劉備陣営にとって最大の金星である。曹操は訃報を聞いて号泣したという。
西涼を駆ける
潼関で曹操に敗れた馬超は涼州の冀城を奪い、羌族と結んで勢力を取り戻した。夏侯淵はただちに救援に向かい、馬超を撃退し、さらに韓遂を追って西へ西へと駆ける。羌族の砦を襲い、三十年も王を名乗っていた宋建を討ち、涼州一帯を平らげた。「あの速さは人ではない、風だ」と曹操は褒め、兵たちは行軍の速さを歌にした。曹操の西の守りは、彼の駿足によって支えられていたのである。
「将たる者、速きこと風の如くあれ」と兵に説いたと伝わる
正史ではどうだった?
正史でも涼州平定の功は大きく、曹操の信頼厚い宿将であった。定軍山で黄忠に討たれたのは事実で、曹操が「将は時に臆病であるべきだ」と戒めたことも記録にある。妻は曹操の妻の妹で、曹操が若い頃の罪を代わりにかぶった恩義もあったと伝わる。