曹仁そうじん 字・子孝
守らせれば天下一。樊城を死守した鉄壁の将
人物
曹操の従弟。若い頃は任侠を好む荒くれ者だったが、曹操の挙兵に従うと規律を重んじる将に変わった。各地の戦に従軍し、新野では八門金鎖の陣を敷いて劉備を攻めたが徐庶に破られ、博望・新野と続けて敗れている。しかし赤壁の敗戦後、荊州の江陵を守ってからが真骨頂で、周瑜の猛攻を一年にわたって凌ぎ、周瑜に毒矢を射当てて重傷を負わせた。その後は樊城の守将となり、219年の関羽の北伐では城が水に沈みかけるほどの大洪水のなか、満寵とともに兵を励まして持ちこたえる。この粘りが徐晃の救援と呉の裏切りを呼び、関羽を死地へ追い込んだ。曹丕の代には大司馬に昇り、魏軍の最高位に就く。濡須での攻勢は朱桓に敗れたが、曹操が「敵を攻めるより守るほうが難しい、曹仁こそその名手」と評した通りの将であった。
名場面
樊城、水に沈む
関羽が北上し、于禁の七軍が大水に呑まれた。樊城の城壁も水に浸かり、崩れた箇所から濁流が流れ込む。兵たちは震え上がり、城を捨てて逃げようと言い出した。曹仁は白馬を斬って血を啜り、「城と命運を共にする」と誓いを立てる。満寵が「水はすぐ引く。関羽が北へ進めぬのはこの城があるからだ」と励まし、兵は踏みとどまった。やがて水が引き、徐晃の援軍が到着する。守り続けたこの数十日が、三国の運命を変えた。
周瑜に毒矢を放つ
赤壁で勝った周瑜は勢いに乗って江陵を攻めた。曹仁は城門を開けて誘い込み、周瑜が突入した瞬間に伏兵を放つ。乱戦のなかで曹仁の兵が放った毒矢が周瑜の脇腹に突き刺さった。周瑜は落馬し、呉軍は総崩れとなって退く。周瑜はのちに毒が回って苦しみ続け、この傷は彼の死期を早めたとも言われる。曹仁は結局、江陵を放棄して北へ退いたが、天下の名将を一年間足止めし、手傷を負わせたのである。
八門金鎖の陣
新野の劉備を討つべく出陣した曹仁は、兵法に誇りを持ち、八門金鎖の陣を敷いた。だが劉備のもとに現れた徐庶は陣を一目で見抜き、「生門から入り、景門から出れば破れる」と趙雲に命じる。趙雲が陣を切り裂くと、見事な陣形はたちまち崩れた。夜襲で挽回を図るも、これも読まれて大敗し、樊城まで奪われる。曹仁は屈辱を胸に曹操のもとへ帰ったが、この敗北が曹操に徐庶の存在を知らしめ、彼を引き抜く策へとつながった。
「城と生死を共にす。逃げる者は斬る」
正史ではどうだった?
正史でも守城の名将として名高く、江陵で周瑜を一年間防ぎ、樊城で関羽を食い止めた功は演義と同じ。若い頃は法を軽んじたが後に厳格となり、曹丕の代に大司馬となった。周瑜に矢傷を負わせたのは事実だが、毒矢であったかは演義の脚色。