三三国志 英雄図鑑
魏魏の二代皇帝・明帝

曹叡そうえい 字・元仲

司馬懿を使いこなし、諸葛亮の北伐を凌いだ若き帝

204年〜239年(享年35)#皇帝#北伐防衛#宮殿造営
統率武力知力政治魅力7455807268

人物

曹丕の長子。母の甄氏が父に殺されるという悲劇を背負いながら、聡明さを買われて帝位を継いだ。即位直後から蜀の諸葛亮が北伐を始め、魏は未曾有の危機を迎える。曹叡は一度は追放した司馬懿を呼び戻して大都督に任じ、曹真と組ませて防衛線を築いた。街亭で馬謖を破り、陳倉を守り抜き、五丈原では司馬懿に持久戦を命じて諸葛亮を病没に追い込む。呉の孫権が合肥を攻めた際には自ら親征して退けるなど、軍事面では祖父譲りの判断力を見せた。遼東の公孫淵を司馬懿に討たせ、魏の版図はこの時代に最大となる。しかし外敵が去ると宮殿や庭園の造営にのめり込み、民を疲弊させた。三十代半ばで病に倒れ、幼い曹芳を曹爽と司馬懿に託して世を去る。この託孤が、やがて司馬一族の台頭を招くことになった。

名場面

1

司馬懿を呼び戻す

諸葛亮の離間の計で司馬懿は官を追われ、魏は北伐を迎え撃つ将を失っていた。夏侯楙が大敗し、曹真も追い詰められるなか、曹叡は迷わず詔を出して司馬懿を復帰させる。「彼を追放したのは私の過ちである」。復帰した司馬懿はただちに孟達の反乱を電光石火で鎮め、街亭へ張郃を送って蜀軍を退けた。疑えば国が滅び、信じれば国が守られる。若き皇帝の決断が魏を救ったのである。

2

五丈原への詔

五丈原で司馬懿が諸葛亮に女物の衣を送りつけられ、将兵が怒り狂って出撃を求めた。司馬懿はあえて「出撃の許しを朝廷に請う」と使者を送る。曹叡はその意図を読み取り、衛尉の辛毗に節を持たせて陣に遣わし、「出撃する者は斬る」と命じさせた。将兵はしぶしぶ従い、持久戦が続く。やがて諸葛亮は陣中で星となった。皇帝と大都督が千里を隔てて息を合わせた、見えざる連携の勝利である。

3

宮殿の造営

外敵の脅威が薄れると、曹叡は洛陽に壮麗な宮殿を次々と建て、銅の人や承露盤を長安から運ばせた。楊阜や高堂隆が「民が疲れ、天が怒ります」と諫めても耳を貸さない。承露盤を運ぶ途中、巨大な銅人が涙を流したという怪異まで語られる。名君の資質を持ちながら晩年に驕った姿は、祖父の曹操が畏れた「天下を取った後の緩み」そのものであった。若くして世を去ったのも、その報いだと演義は暗示している。

「司馬懿を退けたは朕の過ちなり。ただちに呼び戻せ」

曹叡

正史ではどうだった?

正史でも司馬懿・曹真を使って諸葛亮の北伐を防ぎ、法制整備にも意欲的だった明君と評される一方、晩年の宮殿造営の浪費は史家にも批判された。遼東平定と公孫淵討伐は事実で、魏の最大版図を実現している。