三三国志 英雄図鑑
魏魏の武帝・乱世の奸雄

曹操そうそう 字・孟徳

治世の能臣、乱世の奸雄。天下を鷲掴みにした男

155年〜220年(享年65)#君主#奸雄#詩人#兵法家
統率武力知力政治魅力9672919496

人物

沛国譙県の生まれ。若き日に人相見から「治世の能臣、乱世の奸雄」と評され、黄巾の乱で頭角を現す。董卓の暗殺に失敗して都を逃れ、反董卓連合に加わるが、諸侯の腰の重さに憤って独自の道を歩み始める。兗州を本拠に青州兵を手に入れ、呂布との死闘を制し、献帝を許に迎えて「天子を奉じて諸侯に令す」立場を得た。官渡の戦いでは十倍の袁紹軍を兵糧庫の急襲で打ち破り、河北を平定して北方の覇者となる。赤壁で周瑜に大敗して天下統一は遠のいたが、その後も潼関で馬超を退け、漢中を奪い、魏王に昇った。晩年は関羽の北上に都を移そうかと悩むほど追い詰められたが、呂蒙の裏切りに救われる。220年、洛陽で没し、息子の曹丕が漢に代わって魏を建てた。詩人としても一流で、乱世を生き抜いた複雑な魅力に満ちた人物である。

名場面

1

七星の宝刀

董卓の専横に朝臣たちが泣くばかりのなか、曹操だけが高らかに笑った。「泣いて董卓が死ぬものか」。王允から七星の宝刀を借り受け、昼寝する董卓の寝所に忍び込む。だが鏡に映った姿を見咎められ、とっさに「名刀を献上いたします」と言い繕って逃げ延びた。逃げる道中、匿ってくれた呂伯奢の一家を誤解から皆殺しにし、「我、人に背くとも、人に我を背かせず」と言い放つ。この一言に、奸雄の恐ろしさと凄みが凝縮されている。

2

官渡の火

袁紹の大軍を前に兵糧は尽きかけ、曹操は撤退を考えていた。そこへ袁紹のもとを去った許攸が訪ねてくる。曹操は履物も履かずに裸足で駆け出して迎え、兵糧庫が烏巣にあると聞くや、自ら精鋭を率いて夜道を駆けた。烏巣に火の手が上がると袁紹軍は大混乱に陥り、張郃や高覧が降る。十万の大軍がここに崩れ、曹操は河北への道を切り開いた。寡兵をもって大軍を破る、彼の生涯でもっとも鮮やかな勝利である。

3

青梅、酒を煮て英雄を論ず

許にいる劉備を小さな亭に招き、青梅を肴に酒を酌み交わした曹操は、天下の英雄を一人ずつ数え上げて切り捨てた。「袁紹は決断がない、劉表は見かけ倒し、孫策は父の名に頼っている」。そして箸を劉備に向け、「今、天下に英雄と呼べるのは、君と私だけだ」と言い放つ。劉備は驚きのあまり箸を落としたが、折しも雷鳴がとどろき、雷に驚いたふりをしてごまかした。英雄が英雄を見抜く、演義屈指の緊張感ある名場面である。

4

短歌行、赤壁の前夜

赤壁の決戦を前に、曹操は大河に船を連ね、月下の宴を開いた。槊を横たえて「酒に対しては当に歌うべし、人生幾何ぞ」と詠み上げるその姿は、まさに天下を手中にせんとする覇者のもの。だが宴の途中、不吉を口にした揚州刺史の劉馥を酔って刺し殺してしまう。翌日には後悔したが、この傲りが敗北の予兆であった。詩人の繊細さと権力者の残忍さが同居する、曹操という人物の両面が浮かび上がる。

「寧ろ我、人に背くとも、人をして我に背かしむること勿れ」

曹操

正史ではどうだった?

正史では屯田制や人材登用策を進めた卓越した政治家・軍略家で、演義ほど陰険には描かれない。呂伯奢殺害は複数の異説があり、「我、人に背くとも」の台詞は注に見える逸話を演義が脚色したもの。詩文は建安文学の中心として高く評価されている。