第7章献帝を迎える曹操と、孫策の江東平定
曹操は献帝を許に迎えて天下に号令。孫策は袁術から独立し、江東を平定する。
長安は地獄であった。董卓の残党・李傕と郭汜は互いに争って帝を奪い合い、献帝は荷車に乗せられて逃げ惑う。やっとの思いで帝が洛陽に戻ったとき、宮殿は焼け跡のまま、百官は草の根を食い、飢えて死ぬ者さえ出た。
このとき、曹操の軍師・荀彧が進言した。「いま天子を迎え、天子を奉じて諸侯に号令すれば、大義はわが手にあります」。曹操は即座に動いた。軍を洛陽に入れて李傕らを追い払い、帝を自分の本拠地・許へ移す。西暦一九六年のことである。献帝は曹操を大将軍に任じ、以後、朝廷の命令はすべて曹操の口から出るようになった。曹操の天下取りは、ここに本格的に始まる。
曹操は許で屯田を興し、流民に田を与えて兵糧を蓄えた。だが翌一九七年、宛城の張繡を攻めた時、思わぬ悲劇に見舞われる。降伏した張繡に対し、曹操は彼の叔母を側室にするという侮辱を加えたのだ。張繡の軍師・賈詡は夜襲を進言し、曹操の陣は夜の闇で火に包まれた。
護衛の典韋は、門に立ちはだかって単身で敵を防いだ。双戟を失うと敵兵を両脇に抱えて振り回し、全身に数十の傷を受けながら、立ったまま息絶えた。曹操は長子の曹昂と甥の曹安民も失った。曹操は泣いた。「わが子を失うより、典韋を失ったことが痛い」。この言葉は、将士の心を強く掴んだ。
時を同じくして、江東では若い虎が牙を剥いていた。孫堅の遺児・孫策である。袁術のもとで功を立てても報われぬことに業を煮やし、父の形見の玉璽を袁術に預ける代わりに、兵三千を借りて江東へ渡った。孫策は劉繇・厳白虎・王朗らを次々と破り、長江の南をまたたく間に平らげる。
孫策には竹馬の友がいた。周瑜、字は公瑾。容姿端麗で音楽にも通じ、「曲に誤りあれば周郎顧みる」と歌われた才人である。周瑜は自ら兵を率いて孫策に合流し、二人は江東の名士・張昭を迎え、大喬・小喬の姉妹をそれぞれ妻として、政治も家庭も固めていった。
神亭嶺の一騎討ちは語り草である。孫策は劉繇の部将・太史慈と出会い、二人きりで組み討ちになった。孫策は太史慈の短戟を奪い、太史慈は孫策の兜を奪う。やがて太史慈を捕らえた孫策は、縄を解いて言った。「あなたと共に天下を語りたい」。太史慈は「明日の正午までに兵をまとめて戻る」と約束し、果たしてその時刻に帰ってきた。
一九七年、袁術は玉璽を手にしたことで増長し、寿春で皇帝を自称した。孫策はこれを機に袁術と絶縁し、曹操と結ぶ。曹操は孫策を「獅子の子」と警戒しつつも討逆将軍に任じた。北に曹操、南に孫策。天下の地図は、確実に塗り替えられていった。