太史慈たいしじ 字・子義
孫策と互角に渡り合った、義に厚い弓の達人
人物
太史慈は東萊の人で、若いころ郡の使者として役所の訴状をめぐる知恵比べで名を知られた。黄巾の残党に囲まれた孔融を救うため、単騎で包囲を突破して劉備に救援を求めた逸話は、彼の義侠心をよく表している。その後は揚州の劉繇に仕え、神亭嶺で孫策と一騎打ちを演じた。槍を交え、落馬してなお組み合い、兜と短戟を奪い合ったこの勝負は、演義でも屈指の名場面である。劉繇が敗れたのち捕らえられ、孫策に縄を解かれて部下となる。散り散りになった兵をまとめに行かせてほしいと願い出ると、周囲は逃げるに違いないと止めたが、太史慈は約束の正午きっかりに兵を連れて戻った。合肥攻めで張遼の罠にかかり、矢を受けて四十一歳で没する。「大丈夫たるもの、七尺の剣を帯びて天子の階を昇るべし」と叫んで息絶えた。
名場面
孔融を救う単騎の突破
北海の孔融が黄巾の残党に囲まれたとき、太史慈は母への恩返しのため城に入った。援軍を求める使者が必要だが、城は幾重にも包囲されている。太史慈は数日間、朝になると城外へ出て的を射る練習を繰り返し、敵が慣れきったところで馬に鞭を入れて包囲を突っ切った。追ってくる敵を振り向きざまに射落とし、平原の劉備のもとへたどり着く。劉備は「孔北海も世の中に劉備がいるのを知っていたか」と喜び、救援に向かった。
神亭嶺の一騎打ち
劉繇が孫策との戦いを渋るなか、太史慈は小兵一騎だけを連れて偵察に出た。山道で出くわしたのは、孫策とその十二騎である。太史慈は臆するどころか「孫策はどれだ」と名乗りを上げ、二人の槍が火花を散らした。やがて組み合ったまま馬から落ち、太史慈は孫策の兜を、孫策は太史慈の背の短戟を奪う。両軍の援兵が来て勝負はお預けとなったが、この日から二人は互いを認め合う。
正午の約束
孫策に降った太史慈は、劉繇の残兵が散り散りになっているので集めてきたい、と申し出た。諸将は「放せば帰ってこない」と反対したが、孫策は笑って送り出し、いつ戻るかを問うた。「明日の正午に」。翌日、孫策は陣の門に竿を立てて影を見ていた。影がちょうど真下に落ちたとき、太史慈は千余りの兵を率いて戻ってきた。諸将はそろって孫策の人を見る目に感服したという。
「大丈夫たるもの、七尺の剣を帯びて天子の階を昇るべし。志いまだ遂げざるに、いかで死なんや」
正史ではどうだった?
正史でも孔融救援と神亭嶺の一騎打ちはほぼ同じ形で記録され、信義に厚い人物として描かれる。ただし死は病死で、合肥で張遼の罠にかかって討たれたのは演義の創作。没年も建安十一年で、合肥の戦いより前である。