三三国志 英雄図鑑
呉呉の丞相

陸遜りくそん 字・伯言

書生と侮られ、夷陵で火を放った静かなる名将

183年〜245年(享年62)#軍師#夷陵#大都督
統率武力知力政治魅力9568958885

人物

陸遜は江東の名門・陸氏の出で、若くして孫権に仕えた。書生あがりの文官と思われていたが、その頭脳は呂蒙がもっとも頼みにするものだった。関羽が樊城を攻めていたころ、呂蒙は病と偽って退き、無名の陸遜を後任に据える。陸遜は関羽にへりくだった手紙を送って油断させ、その隙に荊州を奪う道を開いた。劉備が復讐の大軍を率いて攻め寄せると、孫権は陸遜を大都督に任じる。老将たちは若造の指揮を嫌ったが、陸遜は半年以上も守りに徹し、劉備が林の中に七百里にわたって陣を連ねた瞬間、火を放って一気に殲滅した。これが夷陵の戦いである。のちに丞相にまで昇るが、後継者争いで孫権の怒りを買い、幾度も責められて憤死した。六十三歳であった。

名場面

1

関羽を油断させた手紙

陸口の守将となった陸遜は、まず関羽へ丁重な手紙を送った。将軍の武勇は天下に並ぶ者がない、自分のような若輩はただ教えを乞うばかりだ、と。関羽はこれを読んで大笑いし、「孫権はこんな書生に守りを任せるのか」と呉への備えの兵を樊城へ回してしまう。背後が空いたところに呂蒙の白衣の商人の船団が忍び寄る。陸遜の筆は、関羽の刀よりも深く荊州を切り裂いたのである。

2

夷陵の大火

劉備の軍は山林の中に長い陣を張り、暑さを避けていた。陸遜は諸将に「蜀軍は疲れ、守りがゆるんだ。今こそ時だ」と告げ、兵一人ひとりに茅の束を持たせて夜襲をかけた。四十余りの陣営が次々に燃え上がり、劉備は命からがら白帝城へ逃げ込む。この一戦で蜀の国力は大きく削がれ、劉備は翌年に世を去った。無名の書生と侮られた男が、天下に名を知られた夜であった。

3

八陣図に迷う

劉備を追って魚腹浦まで来た陸遜は、川辺に積まれた石の山に足を踏み入れた。たちまち殺気が立ちこめ、砂塵が巻き、道が見えなくなる。これは諸葛亮が入蜀の際に残した八陣図であった。途方に暮れていると、一人の老人が現れて出口へ導いてくれる。諸葛亮の舅・黄承彦である。陸遜は「孔明は本当に臥龍だ、私には及ばぬ」と嘆じて軍を引き、北からの曹丕の侵攻に備えた。

「蜀軍は疲れきった。勝利は、まさに今この時にある」

陸遜

正史ではどうだった?

正史でも夷陵の火攻めは陸遜の功績として記録されるが、八陣図の怪異は演義の創作。晩年は孫権の後継者問題で太子を擁護し、孫権に幾度も譴責されて憤死した。政治家としても優れ、荊州の統治と丞相としての手腕は高く評価されている。