朱然しゅぜん 字・義封
孫権の学友にして、魏の大軍を半年しのいだ守将
人物
朱然は丹陽の人で、もとの姓は施。母方の叔父・朱治の養子となり、朱姓を名乗った。孫権とは幼いころ机を並べて学んだ学友で、その縁は生涯続く。呂蒙の荊州攻めでは潘璋とともに麦城を囲み、脱出を図る関羽の退路を断って捕らえる功を立てた。呂蒙の死後、荊州の要・江陵の守りを託される。曹丕の三方面からの侵攻で、曹真や張郃、夏侯尚らの大軍に江陵を半年にわたり包囲されたが、城内に疫病が広がり兵が数千に減っても屈せず、ついに魏軍を退けた。この一戦で朱然の名は魏にも響きわたる。夷陵の戦いでも陸遜の下で劉備の軍を破っている。演義では蜀の趙雲に討たれたと書かれるが、これは創作で、実際には六十八歳まで生きて呉の柱石であり続けた。孫権はその病を案じ、死に際しては喪服を着て泣いたという。
名場面
関羽の退路を断つ
麦城に追い詰められた関羽は、わずかな兵で西へ脱出を図った。呂蒙はその道筋を読み切り、朱然と潘璋に伏兵を命じる。夜、関羽が臨沮の山道にさしかかると、朱然の兵が一斉に鬨の声を上げて行く手を塞ぎ、潘璋の部下が馬の脚を縄で絡め取った。天下に名高い関羽が、ついに捕らえられた瞬間である。朱然は、呉の荊州奪還を仕上げた一人として歴史に名を刻んだ。
江陵、半年の籠城
曹丕の命を受けた魏の大軍が江陵を囲んだ。城内の兵は病で倒れ、戦える者は五千ほど。城壁に土山を築かれ、地下道を掘られ、矢の雨が降る。だが朱然は顔色一つ変えず、兵を励まして夜襲をかけ、敵の陣地をいくつも焼いた。孫権の援軍も川の増水で届かない。それでも半年、江陵は落ちなかった。魏軍はついに疲れ果てて退き、曹丕は「呉に朱然あり」と嘆いた。この守りによって、呉の荊州支配は揺るぎないものとなった。
「城は落ちぬ。兵が一人残っている限り、江陵は呉の城だ」
正史ではどうだった?
正史の朱然は呉後期の筆頭格の将で、江陵防衛は名高い。演義では夷陵で趙雲に討たれたことになっているが、実際には六十八歳で病没。一九八四年に安徽省で墓が発見され、精巧な漆器などの副葬品が出土したことでも知られる。