周瑜しゅうゆ 字・公瑾
赤壁に火を放った、美周郎と呼ばれた智将
人物
容姿端麗、音楽にも通じ、人々は彼を「美周郎」と呼んだ。周瑜は孫策と同い年の親友で、ともに江東を平定し、大喬と小喬という姉妹をそれぞれ娶った義兄弟でもある。孫策亡きあとは若い孫権を支え、曹操の大軍が迫ると主戦論を唱えて大都督となった。赤壁では蔣幹を利用して曹操に水軍の将を殺させ、黄蓋の苦肉の計で偽りの降伏を仕立て、火攻めによって曹操の大船団を焼き尽くす。この一戦で天下三分の流れが定まった。ただ演義では、諸葛亮の才能を恐れて幾度も命を狙い、そのたびに裏をかかれる人物として描かれる。南郡では曹仁の矢を受け、荊州をめぐる策はことごとく諸葛亮に読まれて、「既に瑜を生みながら、何ぞ亮を生めるや」と天を仰いで血を吐き、三十六歳で没した。その悔しさすら絵になる、呉を代表する英雄である。
名場面
蔣幹、書を盗む
曹操の使者として旧友の蔣幹が降伏を勧めにやってくると、周瑜は「今日は酒を酌み交わすだけ」と宴を開き、泥酔したふりで同じ寝床に蔣幹を寝かせた。机の上には曹操の水軍都督・蔡瑁と張允からの内通の手紙が、わざと置かれている。蔣幹はまんまと手紙を盗んで帰り、曹操は怒りにまかせて二人の首を刎ねた。水戦に不慣れな曹操軍から、水軍の指揮官が消えた瞬間である。
苦肉の計と火攻め
火攻めを成功させるには、曹操に信じ込ませた降伏者が必要だった。軍議の席で黄蓋が周瑜に異を唱え、周瑜は激怒して老将を百叩きにする。皮が裂け血が飛ぶ様を見て、諸将は涙を流した。これこそ、二人だけが打ち合わせた苦肉の計である。黄蓋の降伏の手紙は曹操に信じられ、やがて東南の風が吹く夜、油と薪を積んだ黄蓋の船団が火を放ちながら曹操の船団に突っ込んだ。長江は炎に染まり、赤壁は勝利の名となった。
天よ、なぜ亮を生んだ
周瑜は荊州を取り戻すため、孫権の妹を劉備に嫁がせる偽りの縁談や、蜀を取るふりをして荊州を奪う策を次々と繰り出す。だがどれも諸葛亮に見抜かれ、兵を失い、矢傷をえぐられるように悪化した。最後には諸葛亮からの手紙に打ちのめされ、天を仰いで叫ぶ。「天は既に瑜を生みながら、なぜ亮をも生んだのか」。血を吐いて倒れ、三十六歳で息絶えた。葬儀にはその諸葛亮が現れ、涙を流して弔ったという。
「天は既に瑜を生みながら、なぜ亮をも生んだのか」
正史ではどうだった?
正史の周瑜は度量が大きく、程普に「周公瑾と交わるのは美酒を飲むようだ」と言わしめた人格者である。諸葛亮との確執はほぼ演義の創作で、死因も遠征途上での病死。赤壁の火攻めの立案者は黄蓋で、全体の指揮を周瑜が執ったとされる。