大喬だいきょう
江東に咲いた二輪の花、その姉
人物
大喬は廬江皖城の喬公の娘で、妹の小喬とともに「二喬」と並び称された江東随一の美女である。孫策が皖城を攻め落とした際、親友の周瑜と語らって喬家の姉妹を娶り、姉の大喬は孫策の、妹の小喬は周瑜の妻となった。江東の二人の英雄が、江東の二輪の花を分け合った形である。しかし結婚からわずか数年で孫策が刺客に襲われて世を去り、大喬は若くして未亡人となる。演義では赤壁の前に諸葛亮が周瑜を怒らせるため、曹操が銅雀台に二喬を囲いたいと願っていると説き、「曹植の詩にもそう書かれている」と語る有名な場面がある。これは諸葛亮の詭弁だが、大喬という女性が天下に知られた美貌の持ち主であったことを物語っている。孫策の死後、大喬は幼い息子の孫紹を育て、ひっそりと生きたと伝わる。その生涯は短い栄光と長い静寂に彩られていた。
名場面
二喬、二英雄に嫁ぐ
皖城を落とした孫策のもとに、喬公には二人の美しい娘がいるという話が届いた。孫策と周瑜は幼なじみで、兄弟も同然の仲である。「俺が姉を、お前が妹を」。笑いながら交わした約束どおり、姉妹はそれぞれ孫策と周瑜に嫁いだ。孫策は喬公に「あなたの娘たちは、われら二人のような英雄を得て、幸せ者ですな」と笑いかけたという。江東の春を飾る、華やかな婚礼であった。
銅雀台の詩
赤壁を前に、諸葛亮は周瑜の闘志をあおるため、こう切り出した。曹操は銅雀台を建て、江東の二喬を手に入れてそこに住まわせることを望んでいる、二喬さえ送れば曹操は兵を引くだろう、と。周瑜が血相を変えると、諸葛亮はわざとらしく「存じませんでしたか、小喬どのは将軍の奥方でしたな」と頭を下げる。周瑜は「曹操とは不倶戴天」と誓い、開戦を決めた。大喬と小喬の美しさが、赤壁の火種となったのである。
「江東の二喬を得て、われら二人は幸せ者だ」と孫策が語ったと伝わる
正史ではどうだった?
正史では「橋公の二人の娘」とのみ記され、名は伝わっていない。大喬・小喬という呼び名は演義以降のもの。孫策の死後の消息は史書になく、諸葛亮が銅雀台の詩で周瑜を挑発した場面は、詩の成立年代からも演義の創作とわかる。