小喬しょうきょう
美周郎に寄り添った、江東の二輪の花の妹
人物
小喬は喬公の次女で、姉の大喬とともに「二喬」と呼ばれた江東の美女である。孫策が皖城を落としたとき、周瑜に嫁いだ。容姿と才気で知られた周瑜と、天下に名高い美女。二人の結婚は、まるで物語のように人々の口にのぼった。演義では、赤壁の前に諸葛亮が「曹操は銅雀台に二喬を囲うつもりだ」と周瑜に吹き込み、周瑜が怒りに震えて開戦を決意する場面に、その名が登場する。本人の出番は多くないが、小喬という存在そのものが、呉が曹操と戦う理由のひとつとして物語の中で輝いている。周瑜が三十六歳の若さで世を去ったのち、小喬は夫の墓を守って暮らしたと伝わる。後世、宋の蘇軾が赤壁を詠んだ詩のなかで「小喬が嫁いだばかりのころ」と周瑜の若々しさを描いたこともあり、小喬の名は赤壁の英雄譚とともに千年の時を越えて語り継がれている。
名場面
美周郎の花嫁
皖城での婚礼の日、喬家の姉妹は江東の二人の英雄に嫁いだ。妹の小喬を迎えたのは、音楽に通じ、容姿端麗で「美周郎」と讃えられた周瑜である。周瑜は酒の席でも演奏の間違いを聞き逃さず、振り返って奏者を見るため、「曲に誤りあれば、周郎顧みる」とうたわれた。そんな夫に寄り添った小喬の日々は、江東の人々の憧れであった。戦乱の時代に咲いた、ひととき華やかな夫婦である。
赤壁の火種
周瑜は呉に来た諸葛亮の本心を探るため、わざと降伏論を口にした。諸葛亮は「ならば簡単です。二喬を曹操に送れば、曹操は満足して兵を引きましょう」と言い、曹植の銅雀台の詩を朗々と誦してみせる。周瑜は立ち上がって「老賊め、わしをあなどるか」と叫んだ。小喬は、自分の夫だ。「存じ上げず失礼を」と諸葛亮は詫びたが、もちろん承知の上である。妻をめぐる怒りが、天下を分ける大戦の口火を切った。
「曲に誤りあれば、周郎顧みる」と、夫の周瑜を讃えた歌が伝わる
正史ではどうだった?
正史では名が伝わらず、周瑜の妻であったこと以外はほとんど記されていない。周瑜の死後の消息も不明。銅雀台の詩をめぐる挑発は演義の創作で、実際の詩には二喬にかかわる句は含まれていない。蘇軾の詞によって、小喬は後世の文学で特に愛された。