三国志 用語集
物語を読んでいて引っかかる言葉、47語。制度・故事成語・書物・武具・戦いの順に。
- 字(あざな)あざな
成人の男子が本名とは別に名乗る通称。目上の者以外が本名を呼ぶのは失礼とされ、日常では字で呼び合った。劉備の玄徳、曹操の孟徳、諸葛亮の孔明はいずれも字で、演義では字で呼ばれる場面が多い。女性には通常つけられない。
- 諡号(しごう)しごう
死後にその人の生前の功績や人柄をたたえて贈られる名。皇帝では魏の武帝(曹操)、蜀の昭烈帝(劉備)、呉の大帝(孫権)など。臣下にも贈られ、諸葛亮は忠武侯、関羽は壮繆侯。演義で「武侯」と呼ばれるのは諡号による。
- 州・郡・県しゅう・ぐん・けん
後漢の行政区分。天下を十三の州に分け、州の下に郡、郡の下に県を置いた。州は現代の日本の地方(関東、九州など)に近い広さで、荊州・益州・揚州・冀州・徐州など、三国志の舞台はほぼこの州の名で語られる。
- 刺史・太守しし・たいしゅ
刺史は州の長官、太守は郡の長官。元来、刺史は郡の監察官だったが、黄巾の乱以後は軍政両面の権限を持つ州牧も置かれ、地方に強大な勢力が生まれた。劉表の荊州牧、劉璋の益州牧などが群雄の基盤となった。
- 丞相(じょうしょう)じょうしょう
皇帝を補佐して国政全般を統べる最高の官職。後漢では長く廃されていたが、曹操が208年に復活させて自ら就任した。蜀では諸葛亮が丞相として政治と軍事の全権を握り、「丞相」といえば諸葛亮を指すことが多い。
- 軍師(ぐんし)ぐんし
主君のそばで作戦を立て、進言する参謀役。演義では諸葛亮・龐統・周瑜・郭嘉・司馬懿らが知略を競う花形として描かれる。正史にも軍師の官名はあり、諸葛亮は軍師中郎将、龐統は軍師中郎将から軍師将軍に任じられた。
- 禅譲(ぜんじょう)ぜんじょう
皇帝が徳のある者に帝位を自ら譲る形式。古代の聖王・堯と舜の伝説にならう。220年に献帝が曹丕へ、265年に魏の元帝が司馬炎へ譲ったが、いずれも実態は力による強制であり、形式を整えるため何度も辞退の芝居が演じられた。
- 屯田(とんでん)とんでん
兵士や流民に土地を与えて耕作させ、収穫を軍の食糧にあてる制度。曹操が196年に許の周辺で始め、初年度に百万石を得たとされる。戦乱で荒れた農地の復興と兵糧の確保を同時に果たし、曹操の覇業を支える経済基盤になった。
- 九品官人法きゅうひんかんじんほう
220年に魏の陳羣が定めた官吏登用制度。各地に中正官を置き、人物を一品から九品までの等級に評価して、それに応じた官職を与えた。当初は人材登用が目的だったが、やがて家柄で等級が決まるようになり、貴族社会の土台となった。
- 五斗米道ごとべいどう
張陵が開いた道教系の宗教結社。入信者が五斗の米を納めたことからこの名がある。孫の張魯が漢中に独立した宗教王国を築き、病を治し、旅人に無料の宿と食事を与える統治を三十年近く続けた。215年に曹操へ降伏した。
- 太平道たいへいどう
張角が開いた道教系の宗教結社。符水で病を治すと説いて貧しい民の信仰を集め、十数年で数十万の信徒を抱えた。184年に「蒼天已に死す、黄天当に立つべし」を掲げて蜂起したのが黄巾の乱で、三国志の物語はここから始まる。
- 黄巾(こうきん)こうきん
184年に蜂起した太平道の信徒たちの呼び名。目印として黄色い頭巾を巻いたことに由来する。本隊は年内に鎮圧されたが、残党は各地に残り、曹操が青州の黄巾を降伏させて精鋭の青州兵に組み込んだように、群雄の兵力の源にもなった。
- 十常侍(じゅうじょうじ)じゅうじょうじ
霊帝の時代に権力をふるった宦官の集団。張譲・趙忠らが中心で、霊帝は張譲を「わが父」と呼ぶほど溺愛した。官職の売買や私腹を肥やす政治で民の恨みを買い、189年に何進を殺した直後、袁紹らの軍に皆殺しにされた。
- 外戚(がいせき)がいせき
皇后や皇太后の親族のこと。後漢では幼い皇帝が続いたため、母方の一族が大将軍として政治を握り、宦官と権力を争った。何皇后の兄・何進はその最後の例で、宦官誅滅を図って逆に殺され、董卓の入京を招いた。
- 五虎大将軍ごこだいしょうぐん
演義で劉備が漢中王となった際、関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠の五人を任じたとされる称号。正史に五虎大将軍の名はなく、陳寿が五人を一つの巻にまとめて伝記を書いたことから生まれた呼び方である。趙雲は他の四人より官位が低かった。
- 天下三分の計てんかさんぶんのけい
諸葛亮が三顧の礼を受けた際に劉備に示した大戦略。北の曹操、南の孫権とは当面争わず、荊州と益州を手に入れて三者が鼎のように並び立つ形を作り、時機を見て中原を攻めるというもの。「隆中対」とも呼ばれる。
- 桃園の誓いとうえんのちかい
劉備・関羽・張飛が張飛の家の桃の園で義兄弟の契りを結んだ、演義冒頭の名場面。「生まれた日は違えど、死ぬ時は同じ日を願う」と誓ったとされる。正史に桃園の記述はないが、三人が寝食を共にし兄弟のようだったとは記されている。
- 三顧の礼さんこのれい
劉備が諸葛亮を迎えるため、その草庵を三度訪ねたという故事。目上の者が礼を尽くして人材を招くことを意味する。正史にも諸葛亮自身が出師の表で「先帝は三たび臣を草廬のうちに顧みた」と記しており、史実と考えられている。
- 水魚の交わりすいぎょのまじわり
劉備が諸葛亮を重用するのを関羽と張飛が不満に思った時、劉備が「私に孔明があるのは、魚に水があるようなものだ」と諭した故事。切っても切れない親密な関係を指す。正史の諸葛亮伝にも載る、主従の信頼を示す名言である。
- 苦肉の計くにくのけい
赤壁の戦いで、黄蓋が周瑜にわざと鞭打たれて偽りの降伏を曹操に信じさせた計略。自分の身を傷つけてまで敵を欺く策をいい、現代の「苦肉の策」の語源になった。鞭打ちの芝居は演義の創作で、正史では黄蓋の偽降のみ記される。
- 連環の計れんかんのけい
演義には二つの連環の計がある。一つは王允が貂蝉を董卓と呂布の双方に近づけて仲を裂いた策。もう一つは赤壁で龐統が曹操に船を鎖でつながせ、火攻めの効果を高めた策。いずれも複数の計を鎖のようにつなぐことから名がある。
- 空城の計くうじょうのけい
街亭の敗戦後、諸葛亮が兵のいない城で門を開け放ち、城楼で悠然と琴を弾いて司馬懿に伏兵を疑わせ撤退させたという計略。演義の名場面だが正史にはなく、裴松之も注で引用しつつ信じがたいとしている。
- 泣いて馬謖を斬るないてばしょくをきる
街亭で命令に背いて大敗した愛弟子の馬謖を、諸葛亮が軍律を守るため涙ながらに処刑した故事。私情を捨てて規律を守ることのたとえとして使われる。正史でも馬謖は処刑され、諸葛亮が涙を流したと記されている。
- 出師の表すいしのひょう
227年、北伐に出る諸葛亮が皇帝の劉禅に奉った上奏文。先帝への恩と国への忠誠、若い皇帝への諫言が切々とつづられ、「これを読んで泣かぬ者は忠臣ではない」とまで言われる名文。全文が正史の諸葛亮伝に収められている。
- 白眉(はくび)はくび
蜀の馬良は五人兄弟の中で最も優れており、眉に白い毛が混じっていたことから「馬氏の五常、白眉最も良し」と評された。転じて多くの中で最も優れた人や物を指す。馬良は馬謖の兄で、夷陵の戦いで命を落とした。
- 鶏肋(けいろく)けいろく
漢中争奪戦で撤退を迷っていた曹操が、夜の合言葉を「鶏肋」と定めた。楊修は「鶏のあばら骨は食べる所は少ないが捨てるには惜しい、殿は撤退をお考えだ」と見抜き、荷造りを始めた。演義ではこれが原因で曹操に処刑される。
- 髀肉の嘆ひにくのたん
劉表のもとに身を寄せていた劉備が、長く馬に乗らないせいで太ももに贅肉がついたことを嘆いた故事。功名を立てる機会がなく無為に時を過ごすことを惜しむ意味で使われる。正史の注に引く記録にも見える、劉備の雌伏時代を象徴する話。
- 死せる孔明、生ける仲達を走らすしせるこうめいいけるちゅうたつをはしらす
五丈原で諸葛亮が没した後、追撃してきた司馬懿(字は仲達)が、諸葛亮の木像を見て生きていると思い込み慌てて退却した故事。死後もなお敵を恐れさせる偉大さのたとえ。正史の注にも、当時の民がこう言って笑ったと記される。
- 呉下の阿蒙ごかのあもう
呉の呂蒙は武勇一辺倒だったが、孫権に学問を勧められて猛勉強し、魯粛を驚かせた。魯粛が「もはや呉にいた頃の蒙くんではない」と言ったことから、いつまでも進歩のない人を指す。逆に成長した人を褒めるときの前置きにもなる。
- 刮目(かつもく)かつもく
呂蒙が魯粛に「士たる者、別れて三日たてば刮目して相待すべし」と答えた故事から。目をこすってよく見る、つまり人の成長を認めて改めて見直すことを意味する。「刮目して見よ」の形で今もよく使われる。
- 七縦七擒しちしょうしちきん
南征に赴いた諸葛亮が、南蛮王の孟獲を七度捕らえては七度釈放し、ついに心から服従させた故事。力ではなく心を攻めて相手を従わせることをいう。正史本文にはないが、裴松之の注に引く記録に見え、演義で大きく膨らまされた。
- 七歩の詩しちほのし
曹丕が弟の曹植を疎んじ、七歩歩く間に詩を作らねば処刑すると命じたところ、曹植が「豆を煮るに豆がらを燃やす、同じ根から生まれたのになぜ急いで煮るのか」と詠んで兄を恥じ入らせた話。兄弟の争いを嘆く詩として名高い。
- 破竹の勢いはちくのいきおい
280年、呉を攻める晋の杜預が、兵を休ませようという意見に「今のわが軍は竹を割るようなもので、数節を割れば後は刃を当てるだけで割れる」と答え、一気に呉を滅ぼした故事。止めようのない猛烈な勢いを指す。
- 三国志と三国志演義の違いさんごくしとさんごくしえんぎのちがい
「三国志」は三世紀末に陳寿が書いた歴史書。「三国志演義」は十四世紀に羅貫中がまとめた歴史小説で、民間の講談や芝居で膨らんだ物語を集大成した。日本で親しまれる桃園の誓いや空城の計、赤壁の東南の風は多くが演義の脚色である。
- 正史(せいし)せいし
国家が公認した正統な歴史書のこと。中国では史記から明史までの二十四史を指し、陳寿の「三国志」はその三番目にあたる。「正史では」という言い方は、演義の物語と区別して、歴史書に記された事実関係を語るときに使われる。
- 陳寿(ちんじゅ)ちんじゅ
233〜297年。蜀に生まれて蜀に仕え、滅亡後は晋に仕えて「三国志」を著した歴史家。魏を正統としつつも蜀・呉それぞれの歴史を独立した書として記し、簡潔で公正な筆致が高く評価された。諸葛亮の文集を編んだのも陳寿である。
- 羅貫中(らかんちゅう)らかんちゅう
十四世紀、元末から明初の小説家。「三国志演義」の作者とされるが、生涯には不明な点が多い。講談や雑劇で語り継がれてきた三国の物語を、正史や裴松之の注を参照しながら百二十回の長編小説にまとめ上げた。「水滸伝」にも関わったという。
- 裴松之(はいしょうし)はいしょうし
372〜451年。南朝宋の歴史家。皇帝の命を受け、簡潔すぎる陳寿の「三国志」に当時残っていた多数の史料を引用した注釈を付けた。本文に匹敵する分量の注には逸話が豊富で、演義の名場面の多くがこの裴注の記述から生まれた。
- 赤兎馬(せきとば)せきとば
一日に千里を駆けるという伝説の名馬。全身が燃えるように赤い。董卓が呂布を味方にするため贈り、呂布の死後は曹操の手に渡り、演義では関羽に与えられる。関羽が処刑されると、馬も餌を断って死んだという。正史では呂布の馬としてのみ登場。
- 青龍偃月刀せいりゅうえんげつとう
関羽の得物として演義に描かれる、長い柄の先に半月形の大刀をつけた武器。重さは八十二斤(約五十キロ)とされ、「冷艶鋸」の別名もある。実際にこの形の刀が広まったのは宋代以降で、後漢の関羽が使ったとは考えにくいとされる。
- 蛇矛(だぼう)だぼう
張飛の武器として演義に登場する、穂先が蛇のように波打つ長い矛。長さは一丈八尺(約四メートル)で「丈八蛇矛」とも呼ばれる。長坂橋でこの矛を構えた張飛の一喝が、曹操軍を退けた。正史には張飛の武器についての記述はない。
- 方天画戟ほうてんがげき
呂布の武器として演義に描かれる、槍の穂先の脇に三日月形の刃をつけた戟。突く、斬る、引っかけるの三つの動きができる。轅門射戟の場面では、呂布がこの戟を遠くに立て、一矢で小さな枝を射抜いて劉備と紀霊の戦いを止めた。
- 的盧(てきろ)てきろ
劉備の愛馬。額に白い斑があり、乗る者に災いをもたらす凶馬と言われた。しかし劉備が蔡瑁に命を狙われ檀渓に追い詰められた時、的盧は三丈の川を一跳びで越えて主を救った。凶兆を跳ね返す逸話として演義で印象深く語られる。
- 三大戦役さんだいせんえき
三国時代の流れを決めた官渡・赤壁・夷陵の三つの大戦。いずれも少数の側が勝ち、しかも火攻めが決め手となった共通点がある。官渡で曹操の北方支配が、赤壁で三国鼎立が、夷陵で蜀の衰退と三国の固定がそれぞれ決まった。
- 官渡の戦いかんとのたたかい
200年、河北の袁紹と中原の曹操が黄河のほとりで対決した戦い。兵力で劣り兵糧にも窮した曹操が、袁紹から離反した許攸の情報をもとに兵糧基地の烏巣を奇襲して焼き払い、袁紹軍を総崩れにした。曹操が華北の覇者となる転機。
- 赤壁の戦いせきへきのたたかい
208年、南下した曹操の大軍を、孫権と劉備の連合軍が長江の赤壁で破った戦い。周瑜の指揮のもと、黄蓋の偽降と火攻めで曹操の船団を焼いた。演義では諸葛亮が東南の風を呼び、曹操は華容道で関羽に見逃される。三国鼎立を決定づけた。