馬謖ばしょく 字・幼常
泣いて斬られた、言葉が実を越えた才子
人物
襄陽宜城の人。馬良ら五兄弟は揃って秀才で「馬氏の五常」と称えられ、なかでも馬謖は兵法の議論に長け、諸葛亮に愛されて夜を徹して語り合う仲だった。南蛮征伐では「心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とす」と献策し、七縦七擒の方針を導いた。しかし劉備は臨終の際、「馬謖は言葉が実を越える。大事を任せてはならない」と諸葛亮に忠告していた。第一次北伐、馬謖は街亭の守備を志願し、王平の諫言を退けて水のない山頂に陣を張る。張郃に水を断たれて大敗し、北伐は総崩れとなった。諸葛亮は涙ながらに軍法に従って馬謖を斬り、「先帝の言葉を聞かなかった私の過ちだ」と悔いた。知識はあっても実戦を知らない、才子の悲劇として語り継がれる。
名場面
心を攻める
南蛮へ向かう諸葛亮に、馬謖は見送りがてら進言した。「南蛮は遠く、力で従えても丞相が去ればまた叛きます。兵を用いるは心を攻めるを上とし、城を攻めるを下とすべし」。諸葛亮は「わが心と同じだ」と喜び、孟獲を七たび捕らえて七たび放つ、気の長い戦いに踏み切った。馬謖の理論が最も輝いた瞬間だった。
街亭の山上に陣を張る
街亭を任された馬謖は、現地を見ると街道でなく山頂に陣を置くと言い出した。王平が「水を断たれる」と諫めても、「高きに拠って低きを見るは兵法の常。死地に置いて後に生くともいう」と譲らない。張郃は山を囲んで水を断ち、蜀兵は渇きで動けなくなった。火をかけられて山は地獄となり、馬謖はわずかな兵で逃げ延びた。
泣いて馬謖を斬る
敗れて戻った馬謖を、諸葛亮は軍法に従って斬ると決めた。蒋琬が「天下が定まらぬのに智謀の士を殺すのは惜しい」と止めるが、諸葛亮は「法が行われなければ賊を討てない」と首を横に振る。馬謖は「丞相は私を子のように扱ってくれた。死んでも恨みません」と言い残した。首が届くと諸葛亮は声を上げて泣いた。
「兵を用いるの道は、心を攻めるを上と為し、城を攻めるを下と為す」
正史ではどうだった?
正史でも街亭で山上に布陣して張郃に敗れ、処刑されたことは同じ。ただし「死地に置いて後に生く」の弁や王平との問答の詳細は演義の脚色。一説には獄中で病死したとも、逃亡して捕らえられたとも伝わる。劉備が「言葉が実を越える」と評したことは正史にも記されている。