張郃ちょうこう 字・儁乂
袁紹から曹操へ。巧変の将は木門道に散った
人物
もと袁紹の部将で、顔良・文醜に次ぐ河北の勇将として知られた。官渡の戦いで烏巣の救援を進言したが郭図に阻まれ、敗戦の責任をなすりつけられそうになって高覧とともに曹操へ降る。以後、袁家討伐、烏丸遠征、潼関、漢中と転戦し、巴西では張飛に大敗して兵を失うも、曹操は彼を許して重用し続けた。定軍山で夏侯淵が討たれた後は軍をまとめて撤退させ、魏軍の崩壊を防いでいる。諸葛亮の北伐が始まると、張郃は魏の盾となった。第一次北伐では街亭で馬謖を山上に追い込んで水を断ち、蜀軍を敗走させて北伐全体を失敗に終わらせる。231年、撤退する蜀軍を追って木門道に入り、崖上からの矢の雨を浴びて没する。司馬懿の命令で追撃したとされ、その死は魏にとって計り知れない痛手であった。
名場面
街亭の勝利
諸葛亮は要衝の街亭を馬謖に守らせた。張郃が軍を率いて到着すると、馬謖は街道ではなく山の上に陣を張っている。張郃は一目で見抜いた。「水の手を断てば、あの軍は三日で崩れる」。山を取り囲み、水汲みの道をすべて塞ぐ。渇きに苦しむ蜀兵は陣を飛び出して降り、馬謖は命からがら逃げた。街亭を失った諸葛亮は全軍を撤退させ、第一次北伐は水泡に帰す。地形を読む張郃の眼力が、諸葛亮の壮大な計画を打ち砕いたのである。
木門道の最期
兵糧が尽きて撤退する蜀軍を見て、司馬懿は張郃に追撃を命じた。張郃は「窮鼠は猫を噛むもの。追えば伏兵があります」と反対したが、命令には逆らえない。木門道の狭い谷に入ると、突然、両側の崖の上に蜀兵が現れた。退路がふさがれ、矢が雨のように降り注ぐ。張郃は右膝を射抜かれ、全身に矢を受けて絶命した。諸葛亮はその知らせに「張郃を討てたが、惜しいのは司馬懿を討てなかったことだ」と言ったという。
張飛との死闘
漢中を得た曹操は、張郃に巴西を攻めさせた。立ちはだかったのは張飛である。張郃は三つの砦で守りを固めたが、張飛は五十日も酒を飲んで挑発し続け、油断した張郃の軍を夜襲で潰した。瓦口関に退いた張郃は、さらに張飛の囮に引っかかり、兵をことごとく失って十数騎で逃げ帰る。曹洪は激怒したが、曹操は「張郃は得がたい将だ」と許した。張飛に完敗したこの苦い経験が、のちに慎重で巧みな名将を育てたのかもしれない。
「兵法に、囲む師は闕き、帰る軍は追わずと申す」
正史ではどうだった?
正史でも袁紹から降り、街亭で馬謖を破った功績は同じ。木門道で矢に当たって死んだのも事実だが、司馬懿がわざと死地に送ったという含みは演義の脚色。諸葛亮だけでなく劉備も張郃を夏侯淵以上に恐れていたと記録され、戦場での機略を「巧変」と称えられた。