陶謙とうけん 字・恭祖
三度の辞退の末、劉備に徐州を託した温厚な老牧
人物
徐州の牧として、豊かな徐州を善政で治めた温厚な老人である。黄巾の乱では徐州の黄巾を討って功を立て、州牧として民に慕われた。だが曹操の父曹嵩が徐州を通過したことで運命が狂う。陶謙は曹操に好意を示そうと部下の張闓に曹嵩の護衛を命じたが、張闓は財宝に目がくらんで曹嵩一家を皆殺しにして逃げた。激怒した曹操は父の仇を討つと称して徐州に攻め込み、通る先々で民を虐殺する。陶謙は糜竺の提案で孔融に救援を求め、孔融とともに劉備が駆けつけた。曹操が呂布の兗州侵入で引き揚げると、陶謙は劉備の器量に感じ入り、徐州を譲ろうと申し出る。劉備は二度にわたって固辞したが、陶謙は病床で三度目に「劉備殿に託す以外、徐州の民を救う道はない」と言い残し、劉備の手を取って息を引き取った。劉備が初めて一州の主となった恩人である。
名場面
曹嵩事件
曹操の父曹嵩が家族と財宝を携えて徐州を通ると聞いた陶謙は、曹操と誼を結ぶ好機と考え、部下の張闓に五百の兵で護衛させた。だが張闓はもと黄巾の賊で、山中の寺に宿った夜、曹嵩一家を皆殺しにして財宝を奪って逃げた。陶謙は天を仰いで泣いたが、知らせを受けた曹操は「徐州の民をひとり残らず殺して父の恨みを晴らす」と誓い、大軍で攻め込んだ。善意が最悪の災厄を呼んだ、陶謙の生涯最大の悲劇である。
三たび徐州を譲る
曹操の軍が引き揚げると、陶謙は劉備を上座に招いて徐州の牧の印綬を差し出した。「わしは老いて二人の息子も頼りにならぬ。劉備殿は漢室の末裔、どうかこの徐州を治めてほしい」。劉備は「義のために来たのであって、土地のために来たのではない」と断った。陶謙は二度目も断られ、病が重くなった三度目、劉備を枕元に呼んで「もはやこれ以外に民を救う道はない」と指で自らの胸を指し、劉備の手を握ったまま息絶えた。
「劉備殿に託す以外、徐州の民を救う道はない」
正史ではどうだった?
正史では陶謙の人物像はやや異なり、気性が激しく、忠臣を遠ざけて小人を近づけたため徐州は乱れたと記される。曹嵩殺害も陶謙が意図したものとする説もある。ただし死の間際に「劉備でなければ徐州を安んじられない」と言い残したことは正史にもあり、劉備が徐州を継いだのは史実である。