三三国志 英雄図鑑
群雄孔子二十世の孫

孔融こうゆう 字・文挙

幼くして梨を譲り、曹操に歯向かい続けた天下の文人

153年〜208年(享年55)#文人#孔子の子孫#建安七子#直言
統率武力知力政治魅力4530806580

人物

孔子の二十世の孫で、後漢末を代表する文人である。四歳のとき兄弟と梨を分けたときに一番小さな梨を取り、「わたしは一番幼いのだから小さいのでよい」と言ったという逸話で知られ、神童として名を馳せた。長じて北海の相となり、黄巾の残党に包囲されたとき太史慈の活躍で劉備に救援を求め、劉備は「孔北海がわたしのような者を知っているのか」と感激して駆けつけた。陶謙を助けて徐州へも赴き、劉備が世に出る橋渡しをした一人である。のちに許の朝廷に入り、曹操の施策にことごとく異を唱えた。曹操が袁紹の嫁を曹丕の妻にすると「武王が妲己を周公に与えたようなもの」と皮肉り、禁酒令にも反対した。ついに曹操の怒りを買い、一族もろとも処刑される。建安七子の筆頭に数えられる文人であった。

名場面

1

太史慈に救援を託す

北海で黄巾の残党管亥に包囲された孔融のもとへ、一人の若者が単騎で駆け込んできた。孔融が母を世話していた太史慈である。「ご恩に報いに来ました。わたしが包囲を破って救援を呼びます」。太史慈は弓矢を携えて城を出ると、わざと的を射て練習するふりを三日続け、敵が油断したところで一気に駆け抜け、平原の劉備のもとに走った。劉備は「孔北海がこの劉備を知っていてくれたのか」と涙を流し、三千の兵で救援に向かった。

2

曹操への最後の皮肉

曹操が孔融を処刑しようとしたとき、孔融の二人の子は碁を打っていた。周囲の者が「早く逃げなさい」と言うと、子どもは「覆った巣の下に無事な卵があるでしょうか」と答えて動かなかったという。孔融は死の間際まで曹操を恐れず、禁酒令に対しては「酒で国を滅ぼした者もいるが、女で国を滅ぼした者もいる。なぜ結婚は禁じぬのか」と書き送った。才気と毒舌で曹操に挑み続けた、乱世に珍しい文人の意地であった。

「覆った巣の下に、無事な卵があるだろうか」と、子が答えたと伝わる

孔融

正史ではどうだった?

正史でも孔子の子孫で、北海の相を務め、曹操に敵対して処刑された点は同じである。政治家としては治績に乏しく、北海では袁譚に敗れて逃げたが、文名は高く曹丕も「揚雄や班固に匹敵する」と評した。処刑の罪状は不孝を説いた言論など複数で、曹操が政敵を粛清した側面が強い。