劉禅りゅうぜん 字・公嗣
阿斗と呼ばれた、暗君か賢君か
人物
劉備の嫡男で、幼名は阿斗。長坂の戦いで趙雲の懐に抱かれて死地を脱し、孫夫人に連れ去られかけたところを再び趙雲に救われた。二二三年、十七歳で蜀漢の二代皇帝に即位。父の遺言どおり諸葛亮を「相父」と呼んで万事を任せ、諸葛亮の在世中は国政の心配がなかった。しかし諸葛亮の死後は宦官の黄皓を寵愛し、遊興にふけって政治を顧みず、姜維が黄皓の排除を求めても聞き入れなかった。二六三年、鄧艾が陰平の険路を越えて成都に迫ると、譙周の勧めで戦わずに降伏。洛陽へ移されて安楽公に封じられ、司馬昭に「蜀が恋しいか」と問われると「ここが楽しくて蜀のことは思い出しません」と答えた。暗君の代名詞とされるが、四十年もの長きにわたって帝位にあり、蜀の民を戦火から守ったという見方もある。
名場面
相父に委ねる
即位したばかりの劉禅に、諸葛亮が出師の表を奉って北伐に出ることを告げた。劉禅は「相父が遠くへ行ってしまえば、誰を頼ればよいのか」と心細さを隠さない。諸葛亮は、郭攸之・費禕・董允ら留守を守る忠臣の名を挙げ、「宮中と府中、ともに一体たるべし」と諭した。年若い皇帝と父のような丞相の、信頼と甘えが入り混じった場面だ。
黄皓の囁き
諸葛亮亡きあと、劉禅は宦官の黄皓を側近に据えた。姜維が北伐の軍費を求めれば、黄皓は「大将軍は功を焦っている」と囁き、姜維が黄皓を斬れと訴えれば、劉禅は「たかが小者、何を気にする」と笑って取り合わない。忠臣は遠ざけられ、佞臣は肥え太り、国の屋台骨は内側から静かに朽ちていった。
此間楽しくて蜀を思わず
降伏して洛陽に移った劉禅を、司馬昭は宴席に招き、蜀の音楽を奏でさせた。旧臣はみな涙を流したが、劉禅だけは笑って楽しんでいる。「蜀が恋しいか」と問われると、「ここが楽しくて蜀のことなど思いません」と答えた。側近が「次は泣いて見せろ」と教え、それを言われたとおりに繰り返したため、司馬昭は大笑いして警戒を解いたという。
「此間楽しくて、蜀を思わず」
正史ではどうだった?
正史の劉禅も黄皓を寵愛し、降伏して安楽公となった点は同じ。ただし諸葛亮の死後も蒋琬・費禕を登用して三十年近く国を保っており、無能一辺倒ではなかった。「楽不思蜀」の逸話は『漢晋春秋』に見えるもので、保身のための演技だったとの解釈もある。