姜維きょうい 字・伯約
孔明の遺志を継ぎ、滅亡の後まで戦った男
人物
天水冀県の人。はじめ魏の天水郡に仕え、諸葛亮の第一次北伐のとき、趙雲の攻撃を見破って撃退したことで注目された。諸葛亮は若き姜維の才を惜しみ、計略で魏に疑われるよう仕向けて帰順させる。以後、諸葛亮は彼を弟子として兵法のすべてを授け、五丈原で臨終を迎えるにあたり、自著の兵書二十四篇を託した。蒋琬・費禕の時代は軍の規模を抑えられたが、費禕の死後、大将軍として九たび中原に兵を出す。洮西で魏の王経を大破する勝利もあったが、鄧艾という強敵に阻まれ、国力は疲弊した。二六三年、鍾会と鄧艾の侵攻を剣閣で防いだものの、鄧艾の陰平越えで成都が降伏。それでも諦めず、鍾会を唆して反乱を起こさせ、蜀再興を図ったが、乱軍の中で果てた。最後まで漢に殉じた男である。
名場面
諸葛亮に見出される
天水攻めで、諸葛亮は趙雲に城を攻めさせた。ところが若い将がその動きを読んで伏兵を置き、趙雲をあと一歩で討ち取る寸前まで追い詰める。帰ってきた趙雲が「姜維という者、槍の腕も見事」と報告すると、諸葛亮は膝を打った。彼は魏側に姜維が疑われるよう仕向けて逃げ場を失わせ、ついに自軍へ迎え入れた。
兵書を託される
五丈原で死期を悟った諸葛亮は、姜維を枕元に呼んだ。「わが平生の学を二十四篇にまとめた。汝ほどの者に伝えられるのは幸いだ」。連弩の設計図、退却の手順、魏延への備えまでを細かく授ける。姜維は泣きながら受け取った。この夜から、蜀の北伐は姜維の双肩にかかることになる。
最後の一計
成都が降伏し、剣閣の姜維にも降れとの勅命が届いた。兵は怒り、岩を斬りつけたという。だが姜維は鍾会に降って取り入り、鄧艾を失脚させ、鍾会に魏からの独立を唆した。「蜀を一度滅ぼして、再び興す」。その書簡が劉禅に届いた直後、計画は漏れ、鍾会と姜維はともに乱軍の中で死んだ。六十二歳だった。
「わが計成らず、これ天命なり」
正史ではどうだった?
正史でも魏から蜀に降り、諸葛亮に重用された経歴は同じだが、「弟子として兵書を授かった」話は演義の脚色。北伐は十一回に及び、国力を疲弊させたとして蜀滅亡の一因と批判される面もある。鍾会を利用した最後の企ては正史にも記され、その執念は称えられている。