費禕ひい 字・文偉
呉を舌で黙らせた、碁を打ちながら国を守る能臣
人物
江夏鄳県の人。幼くして父を失い、族父に従って蜀へ入った。劉禅が太子となると舎人として仕え、諸葛亮の南征からの帰還を出迎えた折、ただ一人諸葛亮の車に同乗を許されて注目を浴びる。呉への使者としてたびたび赴き、孫権や諸葛恪らの鋭い難問を機知で切り返して「蜀に人あり」と感嘆させた。出師の表では「忠良の士」として名を挙げられ、北伐中は魏延と楊儀の仲を取り持ち続けた。諸葛亮の死後、蒋琬に次いで大将軍となり、二四四年には曹爽の侵攻を撃退。記憶力が抜群で、書類を一瞥するだけで内容を把握し、囲碁を楽しみながら政務を片づけたという。姜維の北伐には兵を一万以上与えず、守りを重んじた。二五三年、正月の宴席で、降伏していた魏の郭循に刺殺された。
名場面
孫権との問答
使者として呉を訪れた費禕を、孫権は酒と難問で試した。家臣に「蜀の使者が来ても立つな」と命じておき、費禕が入ると誰も立たない。費禕は「鳳凰が来れば麒麟は食事をやめるが、驢馬には関係がない」と皮肉で返し、呉の諸葛恪が「驢馬こそわが国の柱」と切り返す舌戦となった。孫権は大笑いして「天下の淑徳の人だ」と称え、名剣を贈った。
魏延と楊儀の仲裁
北伐の陣中、猛将魏延と長史楊儀は犬猿の仲で、軍議のたびに魏延が刀を抜いて楊儀が泣き出す有様だった。費禕はいつもその間に座り、魏延の武勇を称え、楊儀の労をねぎらって、その場を収めた。諸葛亮が二人を切り捨てなかったのは費禕の調停があればこそで、彼が席を外した途端に二人の争いは致命的となった。
碁を打ちながら出陣
曹爽が十万で漢中に迫ったとき、費禕は援軍を率いて出ることになった。出陣の間際、来敏という文官が「別れに一局」と碁を求める。費禕は駒を並べ、緊急の報せが次々と届くなか、落ち着き払って打ち続けた。来敏は「あなたの肝の太さを試したのです」と告白する。果たして費禕は王平と呼応して曹爽を撃退した。
「丞相でさえ中原を定められなかった。我らが成せようか。まずは国を保つべきだ」
正史ではどうだった?
正史の費禕は、諸葛亮が後継者と指名した能臣で、大将軍として蜀の安定期を支えた。呉での機知、魏延と楊儀の仲裁、来敏との碁、郭循による暗殺はすべて正史に基づく。演義での出番は少ないが、彼の死が姜維の大規模北伐を招き、蜀の疲弊につながったとの評価が一般的である。