第29章姜維の北伐と蜀の滅亡
姜維は幾度も北伐に挑むが、国力は尽きた。鄧艾が陰平の険路を越えて成都に迫り、劉禅は降伏する。
費禕が降将の手で暗殺されると、姜維を止める者はいなくなった。諸葛亮の兵法を継いだこの男は、以後十年で九度にわたり魏へ攻め込む。洮水の戦いでは魏軍数万を討ち取る大勝もあったが、成果は長続きせず、蜀の国力は確実にすり減っていった。関羽の代から仕える老将・廖化が嘆く。「兵は疲れ、民は困窮している。智も力も敵に及ばず、それでも戦を止めぬとは」。
成都では、宦官の黄皓が皇帝・劉禅を取り巻き、政治をほしいままにしていた。姜維は黄皓を除くよう劉禅に訴えたが、劉禅は「たかが宦官ひとり」と取り合わない。身の危険を感じた姜維は成都に帰れなくなり、沓中で屯田をしながら軍を留めた。国の守りの要が、都から遠い辺境にいる。魏はこの隙を見逃さなかった。
魏の実権を握る司馬昭は、蜀征伐を決断する。「蜀の兵は九万、そのうち成都を守るのは四万。姜維は沓中にいる」。鍾会を総大将に十万余り、鄧艾に三万を預けて二方面から攻め込ませた。鄧艾はどもりの癖のある苦労人で、長年、隴西で姜維と渡り合ってきた魏の名将である。
姜維は沓中から巧みに退き、剣閣の天険に立てこもった。鍾会の大軍は「一人が関を守れば万人も通れぬ」と謳われた剣閣を抜けない。兵糧が尽きかけ、鍾会が撤退を考えたとき、鄧艾が献策した。「陰平から人跡未踏の山を越え、剣閣の背後に出る」。七百里の無人の険路である。鄧艾の兵は崖を削って道を作り、谷には橋を架けた。最後の断崖では、七十近い鄧艾自身が毛布にくるまって転がり落ちた。
山を越えた鄧艾軍は江油を降し、綿竹で諸葛亮の子・諸葛瞻の軍を破る。諸葛瞻は息子とともに討ち死にし、丞相の血筋は国に殉じた。「魏の軍が綿竹を越えた」。成都は大混乱に陥った。南中へ逃げるか、呉を頼るか。議論が割れるなか、劉禅は降伏を選んだ。城門を開き、自らを縛って鄧艾の前に出る。劉備の即位から四十三年、蜀漢は滅んだ。
剣閣の姜維は、劉禅からの降伏命令を受け取った。兵たちは怒って刀で石を斬りつけた。姜維は鍾会に降る。だが彼は諦めていなかった。野心家の鍾会をそそのかして魏に反旗を翻させ、その混乱に乗じて蜀を再興しようと企てたのである。鍾会はまず鄧艾を謀反の罪で捕らえ、次いで自ら成都で挙兵した。だが魏の将兵は従わず、鍾会も姜維も乱戦の中で斬られた。鄧艾もまた護送の途中で殺される。蜀を滅ぼした二人の将は、滅ぼした国の都で、ともに命を落としたのであった。