三三国志 英雄図鑑
蜀蜀の漢中太守

魏延ぎえん 字・文長

反骨の相を背負った、報われぬ猛将

?〜234年#猛将#反骨#漢中#北伐
統率武力知力政治魅力8492694845

人物

義陽の人。はじめ劉表、ついで長沙の韓玄に仕えたが、黄忠を処刑しようとする韓玄を斬って劉備に降った。しかし諸葛亮は彼の後頭部に「反骨の相」があると見抜き、「いずれ裏切る」と断じて処刑しようとする。劉備が取りなして命を救い、以後、魏延は常に諸葛亮への不満を胸にくすぶらせながら戦い続けた。武勇は五虎大将に次ぎ、漢中太守を任され、北伐では先鋒として奮戦する。子午谷から長安を奇襲する策を献じたが採用されず、不満を募らせた。五丈原で諸葛亮の延命の祈祷の灯を蹴り消し、丞相の死後に反乱を起こすも、諸葛亮が生前に授けた策によって馬岱に斬られた。有能でありながら報われなかった、悲劇の猛将である。

名場面

1

韓玄を斬って降る

関羽と一騎打ちをした黄忠が、わざと矢を外したことを「内通」と疑った太守韓玄は、黄忠を斬ろうとした。そこへ魏延が飛び込み、「韓玄は無道の主だ」と叫んで一刀で斬り捨て、城門を開いて関羽を迎え入れた。だが諸葛亮は「禄を食みながら主を殺すのは不忠」と処刑を命じ、劉備が止めてようやく命拾いした。

2

子午谷の奇計

第一次北伐の軍議で、魏延は「精兵五千を与えてくれれば、子午谷の険路を十日で抜けて長安を奇襲する。守将の夏侯楙は臆病者ゆえ必ず逃げる」と献策した。諸葛亮は「危険すぎる」と退け、安全な大路を選んだ。魏延は「丞相は臆病だ」と不満を漏らし、二人の溝はさらに深まった。後世まで議論を呼ぶ名策である。

3

誰か我を殺すか

諸葛亮の死後、魏延は退却に従わず兵を率いて反旗を翻した。楊儀が「誰か我を殺す者ありや、と三度叫べたら漢中を譲ろう」と挑発する。魏延は笑って大声を上げた。「誰か我を殺す者ありや」。その一声が終わらぬうちに、背後にいた馬岱が「ここにあり」と叫んで斬り捨てた。諸葛亮が錦嚢に残した策であった。

「誰か我を殺す者ありや」

魏延

正史ではどうだった?

正史では劉備の部曲(私兵)出身で、劉備に抜擢されて漢中太守となった。反骨の相の話や韓玄殺しは創作。諸葛亮の死後の反乱も、実際は楊儀との権力争いで敗れたもので、魏へ寝返る意図はなかったと陳寿は記している。