荀彧じゅんいく 字・文若
魏の礎を築きながら、漢を守って空の箱を受け取った
人物
潁川の名門に生まれ、若くして「王佐の才」と評された。はじめ袁紹に仕えたが器量を見限り、曹操のもとへ走る。曹操は「わが張良だ」と喜び、以後、荀彧は曹操陣営の頭脳となった。献帝を迎えて大義名分を得る策を進言し、兗州が呂布に奪われかけた時は三城を死守して曹操の帰る場所を守り、官渡では撤退を考える曹操に「ここが天下の分かれ目」と手紙で踏みとどまらせた。また荀攸・郭嘉・程昱・鍾繇といった人材を次々に推挙し、曹操軍の文官の柱を築いている。だが曹操が魏公となり九錫を受けようとした時、「もとは漢室を助けるための挙兵であったはず」と反対する。曹操との溝は埋まらず、曹操から届いた空の食箱を見て意を察し、自ら命を絶ったと伝わる。魏の礎を築きつつ、最後まで漢の臣であろうとした悲劇の宰相である。
名場面
天子を奉じて諸侯に令す
献帝が長安を脱して洛陽にたどり着いた時、都は焼け野原で、天子は飢えていた。諸将の中には「漢はもう終わった、関わるだけ損だ」と言う者もいる。荀彧は進み出て言った。「晋の文公も漢の高祖も、天子を奉じて天下の人心を得ました。今こそ帝を迎えるべき時です」。曹操は即座に動き、献帝を許に迎える。以後、曹操の命令はすべて天子の詔として発せられた。曹操の覇業の根幹となる策は、荀彧から出たのである。
官渡の手紙
官渡で袁紹軍と対峙して半年、曹操軍の兵糧は尽きかけ、兵は疲れ果てていた。曹操は許に手紙を送り、撤退して守りに入るべきかを問う。荀彧の返事は即座に届いた。「ここで退けば天下の形勢は決まります。袁紹は兵を集めるだけで使えず、今こそ奇策を用いる時です。あと少し耐えてください」。曹操は手紙を読んで踏みとどまり、間もなく許攸が降って烏巣の在り処を知る。もしこの手紙がなければ、三国の歴史は違っていたであろう。
空の食箱
曹操が魏公に昇り、天子に匹敵する九錫を受ける話が持ち上がった。董昭らが賛同を求めると、荀彧は静かに首を振った。「丞相はもともと漢室を助けるために兵を挙げられた。忠義を守るべきで、こうしたことはふさわしくない」。曹操はこれを聞いて不快を隠さず、荀彧を従軍させて都から引き離す。やがて曹操から食物の箱が届いたが、開けると中は空であった。荀彧はその意味を悟り、毒を仰いで世を去る。五十歳であった。
「天子を奉じて民の望みに従うこと、これ大順なり」
正史ではどうだった?
正史でも献帝奉戴の進言、官渡での激励、人材推挙など曹操陣営の最重要の謀臣として記録される。魏公就任に反対して疎まれたのも事実だが、死因は正史では病死とされ、空の食箱の話は注に引かれた異説を演義が採用したもの。