孫皓そんこう 字・元宗
国を滅ぼした暴君、されど舌鋒は最後まで鋭く
人物
孫皓は孫権の孫で、廃太子・孫和の子である。叔父の孫休が急死したあと、群臣は「年長で英明」との評判を頼りに彼を皇帝に迎えた。即位当初は倉を開いて民を救うなど善政を行ったが、権力を握ると人が変わる。酒宴を好み、気に入らぬ者の皮を剥ぎ、功臣さえ殺した。陸抗の諫言を退け、怪しげな占いを信じて都を遷し、遷都はまた戻すという迷走を繰り返す。晋が王濬の水軍と杜預の陸軍で一斉に攻め込むと、呉軍はほとんど戦わずに崩れ、孫皓は棺を担いで後ろ手に縛られ、降伏した。二八〇年、三国の時代はここに終わる。洛陽に送られた孫皓は、司馬炎に「席を用意して待っていた」と言われると、「わたしも南で陛下のために席を用意しておりました」と返したという。滅びてなお舌の鋭さだけは健在だった、三国最後の皇帝である。
名場面
名君から暴君へ
即位した孫皓は、まず国庫を開いて貧しい民に施し、宮中の美女たちを解放して家に帰した。群臣は「これは明主だ」と喜んだ。だが数か月もすると様子が変わる。宴席で酒を強要し、答えを誤った臣に残酷な刑を加え、自分を帝位に推した濮陽興と張布を「後悔している」という噂だけで殺した。人々は、あの善政はいったい何だったのかと恐れおののいた。権力は人を変える。孫皓はその恐ろしさを体現した皇帝であった。
長江の鉄鎖、断たれる
晋の王濬が巴蜀から大船団を下らせてくると、呉軍は長江に鉄の鎖を張り、川底に鉄錐を仕込んで備えた。王濬は巨大な筏を先に流して鉄錐を抜き取り、油を注いだ松明の筏で鉄鎖を焼き切る。船団は障害を失った長江を一気に下り、呉の要塞は次々と落ちた。孫皓は都の建業にいて、報せを聞いても酒を飲み続けていたという。陸抗が生きていれば、と嘆く者もいたが、もう遅かった。
南にも席を
降伏した孫皓は洛陽に送られ、司馬炎の前にひれ伏した。司馬炎は言う。「わしはこの席を設けて、そなたを待っていたのだ」。すると孫皓は顔を上げ、「わたしも南に席を設け、陛下をお待ちしておりました」と言い返した。晋の臣は唖然とした。「呉では人の皮を剥いだそうだが」と賈充が問うと、「主君を弑する臣には、それがふさわしい」と、司馬氏の過去をあてこすった。国は滅びても、負け惜しみの舌だけは負けなかった。
「わたしも南に席を設け、陛下をお待ちしておりました」
正史ではどうだった?
正史でも暴君としての記述が多いが、即位当初の善政や、司馬炎に対する切り返しは史実に記録される。晋への降伏後は帰命侯に封じられ、洛陽で四年を生きた。呉の滅亡は孫権晩年からの内紛の積み重ねであり、孫皓一人の責任ではないという見方もある。