張昭ちょうしょう 字・子布
孫策の遺言を担った、頑固一徹の大先生
人物
張昭は徐州彭城の人で、戦乱を避けて江東に渡り、孫策に招かれて政務の一切を任された。孫策は死に際して「内政は張昭に問え」と遺言し、若い孫権を託した。張昭は喪に沈む孫権を叱咤して馬に乗せ、諸将に主君の健在を示させるなど、呉の屋台骨を支えた。しかし赤壁の前には降伏を真っ先に唱え、諸葛亮の舌戦では「筆で論じるばかりで、国を救えぬ学者」とやり込められる。演義ではこの一件から、やや保守的な老文官として描かれがちだ。だがその本質は、主君に向かって一歩も退かない剛直さにある。孫権が酒に乱れれば諫め、遼東との同盟を強行しようとすれば門を閉ざして抗議し、孫権が門の前を土で塞ぐと、張昭は内側からさらに土を盛ったという。孫権は何度も彼に腹を立てたが、最後まで尊敬をやめなかった。八十一歳で没した。
名場面
若君を馬に乗せる
孫策の死に、十九歳の孫権は兄の棺の前で泣き崩れていた。張昭は進み出て言う。「今は泣いているときですか。天下は乱れ、狼が群がっています。兄上の遺志を継ぐのが孝というものです」。そして孫権の喪服を脱がせ、鎧を着せて馬に乗せ、軍中を巡らせた。兵たちは新しい主を仰ぎ見て、動揺は鎮まった。若君の涙を拭いてやるのではなく、涙を拭く暇を与えない。それが張昭の忠義であった。
諸葛亮との舌戦
同盟を求めて呉を訪れた諸葛亮の前に、まず立ちはだかったのが張昭である。「先生は管仲、楽毅に自らをなぞらえると聞いたが、劉備は先生を得てかえって領土を失ったではないか」。鋭い皮肉だった。諸葛亮は涼しい顔で、劉備の寡兵と仁義を説き、「座して議論するだけの学者に、国難は救えますまい」と切り返す。張昭は答えに詰まった。呉の降伏論が崩れ始めた瞬間である。
門に土を盛る
晩年、孫権が遼東の公孫淵と手を結ぼうとしたとき、張昭は「必ず裏切られる」と反対した。孫権は怒り、張昭は病と称して屋敷に閉じこもる。孫権は腹立ちまぎれに屋敷の門を土で塞いだ。すると張昭は内側からも土を盛って、さらに門を固めたという。やがて公孫淵は果たして使者を殺して裏切った。孫権は張昭の門の前で幾度も謝り、ついには門に火をかける騒ぎの末、ようやく老臣を引っ張り出して和解した。
「今は泣いているときではありませぬ。兄君の遺志を継ぐことこそ、孝というもの」
正史ではどうだった?
正史でも孫策から孫権を託された筆頭の重臣で、剛直な諫言で知られる。赤壁で降伏を唱えたのは事実だが、諸葛亮との舌戦は演義の創作。孫権が丞相を選ぶ際に二度も張昭を外したのは、その頑固さが煙たかったからだと伝わる。