第21章樊城の戦いと関羽の最期
樊城で于禁を水攻めにし威を天下に轟かせた関羽。だが背後を呂蒙に突かれ、麦城に散る。
漢中王となった劉備は、荊州を守る関羽に北伐を命じた。関羽は養子の関平、腹心の周倉を伴い、曹仁の守る樊城を囲む。曹操は救援に于禁と龐徳を送った。龐徳はもと馬超の部将で、棺を担いで出陣し「関羽を討つか、わが身がこの棺に入るか」と誓った剛の者である。関羽と龐徳の一騎打ちは百合を超え、龐徳の矢が関羽の左腕を射抜いた。
秋の長雨が続いた。関羽は漢水の増水を見て、上流に堤を築かせる。嵐の夜、堤を切ると、濁流が于禁の七軍を飲み込んだ。魏の名将・于禁は高みで降伏し、龐徳は小舟で戦い続けたが捕らえられる。「関羽に膝を屈するぐらいなら死ぬ」。龐徳は斬られ、于禁の降伏と対照をなして後世まで語られた。関羽の威名は中原を震わせ、曹操は一時、都を遷すことまで考えた。
矢傷は毒矢で、骨まで青黒く染まっていた。名医・華佗が訪れ、「骨を削らねばなりません」と告げる。関羽は碁を打ちながら腕を差し出した。刃が骨を削る音が天幕に響き、受け皿の血があふれても、関羽は談笑をやめず石を置き続ける。刮骨療毒。その豪胆は今も語りぐさである。
だが曹操の側近・司馬懿は冷静だった。「孫権は関羽の荊州を欲しがっている。手を結べば関羽は背後を失う」。実際、孫権はかつて関羽に縁談を申し込み、「虎の子を犬の子にやれるか」と侮辱されていた。呉の都督・呂蒙は病と称して引きこもり、無名の若者・陸遜を後任に据える。陸遜はへりくだった手紙を関羽に送り、関羽は「呉に人なし」と背後の守りを薄くした。呂蒙は兵を商人に化けさせて川を上り、荊州の城を一夜で奪う。白衣渡江である。
樊城では徐晃が救援に来て関羽を押し返した。荊州陥落の報に関羽の兵は動揺し、呂蒙が城内の家族を手厚く扱ったと聞いて次々と逃げ散る。関羽は麦城に追い詰められ、廖化を援軍の使いに出したが間に合わなかった。わずかな兵で脱出を試みた関羽と関平は、臨沮の山道で呉の伏兵に捕らえられる。孫権は降伏を勧めたが、関羽は目を怒らせて答えなかった。建安二十四年冬、関羽父子は斬られた。周倉は城壁の上で主の死を知り、後を追った。赤兎馬は餌を断って死んだという。