関平かんぺい
父の影のように従い、父とともに散った孝子
人物
河北の関定の次男として生まれ、流浪中の関羽一行を泊めた縁で関羽の養子となった。以後、常に義父のかたわらにあって槍を振るい、関羽の影のように従う。入蜀の折は荊州に残り、樊城攻めでは先鋒を務めて龐徳と三十合を渡り合い、関羽が毒矢を受けたときには陣を守って一歩も退かなかった。荊州を呂蒙に奪われたあと、麦城からわずかな兵で脱出する関羽に最後まで付き従い、臨沮で父子ともに呉軍に捕らえられる。孫権の降伏勧告を関羽が拒むと、関平も毅然としてこれに倣い、ともに斬られた。年はまだ若く、父に殉じた孝と忠の人として、関帝廟では今も関羽の脇に侍る姿で祀られている。
名場面
関羽の養子となる
五関を越えて劉備のもとへ急ぐ関羽は、関定という老人の家に一夜の宿を借りた。関定は「次男の平を将軍の供に」と頼み、劉備が「関羽には跡継ぎがいない。養子にしてはどうか」と勧める。関羽は喜んで関平を子とし、関平は馬の口を取って父に従った。以後、関羽の周囲には必ずこの若者の姿があった。
龐徳との激闘
樊城攻めで、曹操が送った援軍の先鋒は、棺を担いで現れた決死の龐徳だった。関平は父に先んじて出陣し、龐徳と三十合を戦って互角に渡り合う。関羽が「わが子はよくやった」と交代して出たあとも、関平は父の背後を守って退かなかった。龐徳の矢で関羽が倒れたときも、真っ先に駆け寄って陣へ運んだのは関平である。
麦城からの最期
荊州を奪われ、麦城に追い込まれた関羽は、わずか二百余騎で脱出を試みた。関平は殿を引き受け、追ってくる呉兵を次々と斬り伏せる。だが臨沮の小道に張られた縄に赤兎馬が倒れ、関羽が捕らえられた。関平は父を救おうと一人で敵中へ飛び込んだが、力尽きて捕縛された。父子は同じ日に、同じ場所で首を刎ねられた。
「父上と生死をともにするのは、子として当然のことだ」(父に殉じた関平の心を表す言葉として語られる)
正史ではどうだった?
正史では関羽の実子であり、養子という設定は演義の創作。経歴の詳細はほとんど伝わらないが、荊州陥落後、臨沮で父とともに斬られたことは記されている。正史における関羽の嫡子は関平で、関興はその弟にあたる。