龐徳ほうとく 字・令明
白馬に跨り、棺を背負って関羽を射た
人物
もと馬騰・馬超の配下で、西涼にその勇名を轟かせた。潼関では曹操軍と戦い、馬超が敗れた後も付き従って漢中の張魯のもとに身を寄せる。馬超が劉備に降った時、龐徳は病で動けず漢中に残り、曹操が漢中を攻めた際に捕らえられて魏に仕えることになった。219年、関羽が樊城を攻めると、于禁の七軍に加わって出陣を志願する。だが兄の龐柔が蜀にいるため疑われ、龐徳は棺を作らせて担がせ、「関羽を討たねばこの棺に入って帰る」と誓って出発した。関羽と百合あまりを戦って互角、翌日は矢で関羽の額を射抜く。しかし漢水の氾濫で陣は水没し、小舟で逃れようとして捕らえられた。関羽の前に引き出されてもひざまずかず、「魏王に仕えて死ぬのみ」と罵倒して斬られる。曹操はその死に涙し、「于禁は三十年仕えて龐徳に及ばなかった」と嘆いた。
名場面
棺を担いで出陣
兄が蜀にいる龐徳を、魏の諸将は疑った。曹操も迷う。龐徳は額を床に打ちつけて血を流し、「わが忠誠をお疑いなら死をもって示します」と訴えた。出陣の日、兵に棺を担がせて陣を出る。「関羽を討てばその首を入れ、討てぬならわが骸をこれに入れよ」。妻子にも「帰ってくるとは思うな」と告げた。この気迫は魏軍を震わせ、于禁ですら圧倒された。忠義を疑われた男が、命を賭けて答えを示したのである。
関羽を射る
樊城の前で龐徳と関羽は一騎討ちとなった。白馬の龐徳と赤兎馬の関羽。百合あまりを戦っても決着がつかず、両軍はただ見とれていた。翌日、龐徳はわざと敗走するふりをして振り向きざまに矢を放つ。矢は関羽の左腕に突き立ち、関羽は落馬しかけた。関平が救い出したが、天下の関羽が射られたという衝撃は大きい。于禁は龐徳が手柄を立てることを恐れて鉦を鳴らして退かせたという。この一矢が、龐徳の名を永遠にした。
最期の罵倒
大水で七軍が沈み、龐徳は小舟で逃れようとしたが周倉に水中で捕らえられた。関羽の前に引き出されても、龐徳は仁王立ちのまま動かない。関羽が「兄も馬超も蜀にいる。なぜ降らぬ」と諭すと、龐徳は「魏王は百万の兵を持ち、劉備は小人に過ぎぬ。降るくらいなら死ぬ」と叫んで罵り続けた。関羽は怒り、斬らせる。同じ日に降伏した于禁と、死を選んだ龐徳。演義はこの対比で、忠義とは何かを読者に問いかけている。
「大丈夫、死ぬとも節を曲げず。魏王の鬼となるとも、賊の将とはならぬ」
正史ではどうだった?
正史でも馬超の配下から曹操に仕え、関羽を射て、水没後に降伏を拒んで斬られたことは演義とほぼ同じ。棺を担いで出陣した話も記録にある。曹操が于禁と比べて龐徳を讃えたことも事実で、その子は後に蜀の滅亡の際、関羽の子孫を殺して仇を討ったと伝わる。