于禁うきん 字・文則
三十年の忠勤を、樊城の大水が流し去った
人物
泰山の出身で、鮑信に従って黄巾と戦い、その後に曹操に仕えた。曹操が張繡に宛城で敗れた時、青州兵が略奪を働くのを見てこれを斬り、追撃を防ぐ陣地を築いてから事情を報告したため、「将軍の風がある」と曹操に絶賛された。軍規を乱す者には容赦せず、旧友の昌豨が反乱して降伏してきた時も「囲まれてから降る者を許すのは法ではない」と涙を流しながら斬った。しかし219年、樊城救援の総大将として七軍を率いた時、漢水の氾濫で陣が水没し、関羽の船団に囲まれて降伏してしまう。同行した龐徳が節を曲げず斬られたのと対照的だった。呉が荊州を取ると呉に送られ、曹丕の代に魏へ帰国したが、曹丕は曹操の墓所に于禁の降伏と龐徳の忠節を描いた壁画を見せる。于禁は恥じて病となり、まもなく死んだ。三十年の名声が一戦で崩れた悲劇の将である。
名場面
宛城での規律
張繡の夜襲で曹操軍は総崩れとなり、曹操は長男と典韋を失って敗走した。混乱のなか、味方であるはずの青州兵が乱暴狼藉を働いていると知った于禁は、ただちにこれを討って追い散らす。青州兵は曹操に「于禁が裏切った」と讒言したが、于禁は弁明する前に陣地を築いて張繡の追撃に備えた。曹操がなぜ先に釈明に来なかったか問うと、「敵が迫るなか、まず守りが先です」と答える。曹操は「古の名将もこれに勝るまい」と褒め称えた。
七軍、水に沈む
樊城救援に向かった于禁は、龐徳の反対を押し切って川沿いの低地に陣を敷いた。関羽はこれを見て、上流を堰き止め、秋の長雨を待つ。ある夜、堰が切られ、漢水の濁流が七軍を呑み込んだ。兵は木によじ登り、丘の上に逃れたが、夜明けとともに関羽の船団が矢を射かけてくる。于禁は数万の兵とともに降伏した。隣の丘で龐徳が最後まで戦い続けるのを、彼はただ見ているしかなかった。三十年の武名が、一夜の大水で流されたのである。
壁画の前で
呉から送り返された于禁は、白髪の老人となって曹丕の前にひれ伏した。曹丕は表面上は慰め、先帝の墓参りに行くよう命じる。墓所の壁には、関羽が座し、龐徳が怒って節を曲げず、于禁が地に伏して命乞いをしている絵が描かれていた。それを見た于禁は羞恥と悔恨で顔を上げられず、帰宅してそのまま病に倒れた。演義はこの場面で、曹丕の陰湿さと、降伏がいかに重い恥であったかを同時に描いている。
「敵が目前に迫っている。釈明より守りが先だ」
正史ではどうだった?
正史でも宛城の規律、昌豨の処刑、樊城の降伏と壁画の屈辱はほぼ同じく記録されている。長年の功臣でありながら降伏によって名を落とした点は史家にも議論され、曹丕が壁画で辱めたことは批判された。