楽進がくしん 字・文謙
体は小さく、胆は大きい。一番乗りの常連
人物
小柄で風采は上がらなかったが、胆力と勇気は人並みはずれ、曹操の挙兵初期から従った古参の将である。はじめは文書係として仕えたが、郷里で千人の兵を集めて戻り、以後は常に最前線に立った。呂布、張繡、劉備、袁紹と、曹操が戦うところに楽進ありで、濮陽でも官渡でも、烏巣の兵糧庫襲撃でも先頭に立って敵将を討ち取っている。赤壁の後は張遼・李典とともに合肥を守り、孫権の大軍を迎え撃つ。張遼が八百騎で突撃したその戦いでは守将として城を固め、張遼の活躍を支えた。曹操は「果敢で功を立てないことがない」と称え、五将軍に数えた。218年に病没したが、張遼と並んで合肥を鉄壁にした功は大きい。華やかさには欠けるものの、堅実に数々の武功を積み上げた、縁の下の猛将である。
名場面
合肥の守り
孫権十万の軍が合肥を囲んだ時、曹操が残した箱の中の指示は「張遼・李典は出撃、楽進は城を守れ」であった。張遼が八百騎で突撃に出るあいだ、楽進は城門を固く閉じ、城壁に兵を並べて乱れを許さなかった。もし後方が崩れれば突撃隊は帰る場所を失う。楽進の守りがあったからこそ、張遼は存分に暴れられたのである。派手な張遼の陰で、楽進は戦の土台を支えていた。
一番乗りの常連
曹操が袁譚を南皮に攻めた時、城は堅く、冬の寒さで川は凍り、兵たちは疲れ切っていた。曹操自ら太鼓を叩いて士気を鼓舞すると、楽進が真っ先に城壁をよじ登り、城門をこじ開けた。これは一度や二度のことではない。濮陽、官渡、黎陽と、楽進の名は常に「先登」すなわち一番乗りとして記録されている。小柄な体のどこにこれほどの胆力があるのかと、敵も味方も驚いた。曹操が五将軍に数えたのは、この積み重ねのためである。
「体の大きさは胆の大きさではない」と語ったと伝わる
正史ではどうだった?
正史では「先登」の功を幾度も立て、曹操に高く評価された五将軍の一人。合肥では守将として張遼を支えた。演義では凌統との一騎討ちや甘寧の矢で負傷する場面が加えられたが、正史には病死と記されるのみで、戦場の最期は描かれていない。