三三国志 英雄図鑑
魏合肥の守護神・五将筆頭

張遼ちょうりょう 字・文遠

八百騎で十万を蹴散らし、江東の子を泣き止ませた男

169年〜222年(享年53)#五将軍#合肥#元呂布配下#猛将
統率武力知力政治魅力9392766086

人物

雁門の生まれ。はじめ丁原に仕え、董卓を経て呂布の配下となり、その勇猛で知られた。下邳で呂布が敗れると捕らえられ、曹操を罵倒して死を覚悟したが、劉備と関羽のとりなしで助けられ、曹操に仕えることになる。以後、曹操軍の最前線で戦い続け、白狼山では烏丸の単于を一騎討ちで討ち取った。関羽が曹操に降った時には旧知の仲として間を取り持った。赤壁ののち合肥の守りを任されると、215年、孫権が十万の大軍で攻め寄せた際、わずか八百の決死隊で敵陣に突入し、孫権の本陣まで迫って呉軍を震え上がらせた。さらに退却する孫権を逍遥津で追い詰め、あと一歩で捕らえるところまで追い込む。曹丕の代にも呉を討ち、病身を押して出陣した戦いで丁奉の矢に倒れたと演義は語る。義と勇を兼ね備えた、魏の武将の筆頭である。

名場面

1

下邳の降伏

白門楼で呂布が縄をかけられ命乞いをするなか、張遼は堂々と胸を張り、「曹操よ、濮陽で火攻めにした時に焼き殺せなかったのが残念だ」と罵った。曹操は激怒して剣を抜くが、関羽がひざまずき、劉備も「この人は忠義の士です」と取りなした。曹操は笑って剣を捨て、自ら縄を解き、衣を脱いで張遼に着せる。張遼は感激して降伏した。呂布に忠を尽くした男が、曹操の器を見て新たな主を得た瞬間である。

2

八百騎の突撃

孫権が十万の兵で合肥を囲んだ時、城にいた魏兵は七千に満たなかった。張遼は夜のうちに八百人の決死隊を選び、牛を潰して酒宴を開かせた。夜明けとともに城門を開き、張遼が先頭を駆ける。「我こそは張遼なり」。呉軍は寝込みを襲われたも同然で崩れ立ち、張遼は孫権の本陣目前まで斬り込んだ。孫権は小高い丘に逃げ上がって震えていたという。十万の兵の士気はこの朝に砕けた。

3

逍遥津

十日あまり攻めても合肥は落ちず、孫権は撤退を命じた。張遼はその瞬間を待っていた。殿軍となった孫権の本隊が逍遥津の橋にさしかかると、伏兵が一斉に襲いかかる。凌統が三百人で盾となって戦い、孫権は馬に鞭をくれて、壊れかけた橋を跳び越えて逃げ延びた。凌統の部下は全滅し、呉の宿将たちも傷を負う。この戦い以降、江東では「遼来来」と言えば泣く子も黙ったと伝わる。張遼の名が天下に鳴り響いた、生涯最高の一戦である。

「我こそは張遼なり。孫権、出てこい」

張遼

正史ではどうだった?

正史でも合肥の八百騎突撃と逍遥津の追撃は記録され、関羽との交友も事実。五将軍の筆頭として評価が高い。演義では丁奉の矢に射られて死ぬが、正史では呉との戦いの後に病で没している。白門楼で曹操を罵った場面は演義の脚色。