第12章袁家の滅亡と曹操の河北統一
袁紹の死後、息子たちは跡目を争って自滅。曹操は郭嘉の遺計で遼東まで平らげ、北方を統一する。
官渡で敗れた袁紹は、心身ともに衰え、西暦二〇二年、血を吐いて死んだ。その死に際も、彼は決断しなかった。長男の袁譚か、溺愛する三男の袁尚か。後継を定めぬまま逝ったのである。袁紹の遺した参謀たちは、二派に分かれて争い始めた。
曹操は黎陽で袁譚・袁尚の連合軍を破ったが、冀州の都・鄴は堅い。ここで軍師の郭嘉が進言した。「兄弟は外敵がいれば結束し、いなければ争います。いまは南へ向かい、彼らの自滅を待たれよ」。曹操は荊州へ向かうふりをした。果たして袁譚と袁尚は骨肉の争いを始め、負けた袁譚は曹操に救いを求めてきた。
曹操は鄴を包囲し、水攻めで落城させた。袁尚は幽州の袁煕のもとへ逃げ、やがて二人は烏桓族の地へ亡命する。袁譚もまた曹操に背いて南皮で討たれた。袁紹の一族はほとんど滅び、河北の心臓部・鄴は曹操の都となる。
鄴の城に入った曹操の長子・曹丕は、袁煕の妻であった甄氏の美しさに目を奪われ、妻に迎えた。この夫婦の間に、のちに魏の二代皇帝となる曹叡が生まれる。
曹操は戦いながら、名士を手厚く迎えた。袁紹の参謀・審配は降伏を拒み、「わが主は北にいる」と北を向いて斬られることを願った。曹操は敵の忠臣にも礼をもって葬らせた。また、袁紹の檄文で曹操の父祖まで罵った陳琳を責める声には、「矢は弦に乗れば放たれる。書き手の罪ではない」と許して用いた。
二〇七年、曹操は烏桓の地へ最後の遠征を決意する。「袁尚を匿う烏桓を放っておけば、禍根になる」。反対する諸将の中、郭嘉だけが賛成した。「兵は神速を貴ぶ。輜重を捨て、軽騎で奇襲なされ」。曹操は人跡まれな山道を抜け、白狼山で烏桓の大軍と遭遇した。先鋒の張遼が自ら突撃し、烏桓の王を討ち取る。袁尚らは遼東の公孫康のもとへ逃げた。
諸将は「遼東も攻めましょう」と進言したが、曹操は笑って兵を返した。「公孫康が袁尚の首を届けてくる」。果たしてその通りになった。公孫康は袁尚兄弟を恐れ、その首を斬って曹操に送ってきたのである。これは病床の郭嘉が残した読み、「郭嘉の遺計、遼東を定む」であった。
郭嘉はこの遠征の途中、三十八歳で病死していた。曹操は泣いた。「奉孝ほど私の心を知る者はいなかった。天下のことを託そうと思っていたのに」。郭嘉の死は、のちの赤壁の敗北へもつながる、大きな欠落であった。
同じころ、劉備は荊州の劉表のもとに身を寄せていた。ある宴で厠に立った劉備は、太ももに肉がついたのを見て涙を流す。「かつては馬上で日を過ごし、太ももに肉などなかった。いまは時が過ぎ去り、功業は成らず」。髀肉の嘆である。曹操が北を平らげ、劉備が南で嘆くその年、一人の若者が隆中の草廬で、まだ世に出ずにいた。