陳宮ちんきゅう 字・公台
曹操を見限り、呂布と散った硬骨の軍師
人物
呂布を支え続けた軍師であり、曹操に最も鋭い目を向けた男である。董卓暗殺に失敗して逃げる曹操を中牟で捕らえ、その志に感じて同行したが、曹操が呂伯奢一家を疑って皆殺しにした非情さに戦慄し、黙って去った。のち曹操が徐州で虐殺を行うと、兗州の張邈らと組んで呂布を迎え入れ、曹操の本拠地を奪う。濮陽では曹操を城内におびき寄せて火攻めにし、あと一歩のところまで追い詰めた。呂布が徐州に移ってからも献策を重ねたが、呂布は陳宮の策をしばしば退け、妻や酒に溺れて機を逃した。下邳城が落ちると陳宮は曹操の前に引き出され、呂布を指して「この男が聞かなかったからだ」と言い放ち、助命を断って自ら刑場へ歩いていった。
名場面
曹操を見限る
董卓暗殺に失敗して逃げる曹操を捕らえた陳宮は、その志に感じて官を捨て、ともに旅に出た。だが曹操は宿を借りた父の旧友呂伯奢の家で、豚を縛る物音を殺される相談と誤解して一家八人を皆殺しにし、酒を買いに出ていた呂伯奢まで斬った。「わしが天下の人に背こうとも、天下の人にわしに背かせはせぬ」。この言葉を聞いた陳宮は、寝ている曹操に剣を向けたが思いとどまり、夜中に去った。この男には天下を任せられぬと悟った。
濮陽の火攻め
呂布を兗州に迎えた陳宮は、濮陽の豪族田氏に偽りの内応を申し出させ、曹操を夜の城内へ誘い込んだ。城門をくぐった曹操軍の頭上に火が放たれ、四方から伏兵が襲いかかる。曹操は焼け落ちる梁に腕を焼かれ、馬を失い、呂布に兜を叩かれて「曹操はどこだ」と聞かれる始末であった。典韋の奮戦でかろうじて脱出したが、曹操が生涯で最も死に近づいた一夜であり、陳宮の知略が曹操を上回った瞬間である。
白門楼に死を選ぶ
下邳が落ち、縛られて曹操の前に引き出された陳宮に、曹操は「公台、息災であったか」と声をかけた。「おぬしの心は正しくなかった。だから去ったのだ」と陳宮は答える。曹操が「呂布を知者と思って仕えたのか」と皮肉ると、「この男がわしの言葉を聞いていれば、こうはならなかった」と言い切り、「臣として不忠、子として不孝、死あるのみ」と自ら階を下りた。曹操は涙を流し、陳宮の老母と娘を終生養ったという。
「臣として不忠、子として不孝、死あるのみ」
正史ではどうだった?
正史では中牟の県令として曹操を捕らえた話も、呂伯奢事件で曹操を見限った話も記されていない。陳宮はもともと曹操の部下で、兗州牧就任を助けたが、のちに張邈と組んで呂布を迎え入れて反乱した。曹操が兗州の名士辺譲を殺したことが背景にあったとされる。下邳で捕らえられ処刑された点は同じである。