三三国志 英雄図鑑
第2部 群雄割拠・191〜193年

第5章群雄割拠:孫堅の死と袁紹・公孫瓚の争い

孫堅は荊州で戦死し、北では袁紹と公孫瓚が覇を争う。若き趙雲が初めて戦場に姿を現す。

舞台:襄陽・峴山・界橋

反董卓連合は崩れ、諸侯はそれぞれの領地へ帰った。これより天下は、力ある者が土地を奪い合う群雄割拠の時代に入る。

玉璽を懐に江東へ帰ろうとした孫堅の前に、荊州の劉表が立ちはだかった。袁紹からの手紙で玉璽を奪うよう頼まれたのである。孫堅は荊州の兵を破って帰ったが、恨みは深く残った。西暦一九一年、孫堅は袁術の求めに応じ、劉表を討つべく軍を起こす。

孫堅の軍は連戦連勝、劉表を襄陽の城に追い詰めた。ところが劉表の武将・黄祖の兵が峴山の林に潜んでいた。孫堅はわずかな手勢で敵を追ううち、山中に誘い込まれる。「岩を落とせ」の号令とともに、石と矢が雨のように降りそそいだ。江東の虎は三十七歳で命を落とした。

遺骸は長子の孫策が、捕らえた黄祖と引き換えに取り戻した。十七歳の孫策は父の棺の前で泣き、そして誓った。「父の志は、この策が継ぐ」。彼はいったん袁術の下に身を寄せ、時を待つ。

一方、北では別の嵐が吹いていた。河北の名門・袁紹は、冀州の牧・韓馥を策略で追い出し、肥沃な冀州をまるごと手に入れた。これに怒ったのが、幽州の公孫瓚である。白馬に乗った精鋭「白馬義従」を率いる公孫瓚は、袁紹と界橋で激突した。

戦いの中、公孫瓚は袁紹の将・文醜に追われて窮地に陥る。そのとき、山陰から一騎の若武者が槍を構えて飛び出し、文醜と五十合以上を打ち合って退けた。常山の趙雲、字は子龍。身の丈八尺、眉太く目涼しく、威風堂々たる若者である。「袁紹は民を救う心なし。ゆえに将軍の下へ参った」。公孫瓚は喜んだが、この若者の真価を見抜くことはできなかった。

公孫瓚の求めで援軍に駆けつけたのが、平原の相となっていた劉備である。劉備は趙雲をひと目見て、心を奪われた。趙雲もまた、劉備のまなざしに主君の器を感じた。ふたりは手を取り合い、別れを惜しんだ。「いつか必ず、また」。この約束が果たされるのは、まだ数年先の話である。

袁紹と公孫瓚の争いは一進一退を繰り返した。袁紹の陣営には田豊・沮授ら名の知れた参謀が集まり、河北の勢力は日に日に膨らんでいく。南では袁術が玉璽を狙い、曹操は兗州で黄巾の残党三十万を降して青州兵と名づけた。各地で英雄たちが爪を研いでいる。長安では董卓が倒れ、李傕らが都を荒らしている。天下は、まだ誰のものでもなかった。

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