三三国志 英雄図鑑
群雄河北の猛将

文醜ぶんしゅう

顔良の仇を討たんと出陣し、同じ青龍刀に倒れた剛将

?〜200年#河北四庭柱#袁紹配下#延津の戦い
統率武力知力政治魅力6892301848

人物

顔良と並ぶ袁紹軍の猛将で、身の丈八尺、顔は獬豸という伝説の獣に似ていたと描かれる。磐河の戦いでは公孫瓚を追い詰め、趙雲と五、六十合を打ち合っても勝負がつかなかった。官渡の戦いで顔良が関羽に斬られると、文醜は「顔良とは兄弟も同然、この仇は必ず討つ」と袁紹に出陣を願い出た。袁紹は劉備を同行させ、文醜は十万の軍で延津に向かう。曹操は兵糧と馬を道にばらまいて敵を誘い、河北の兵が略奪に夢中になった隙に襲いかかった。文醜は混乱を立て直して張遼と徐晃を相手に奮戦し、張遼の馬を射倒し、徐晃を退けた。しかしそこへ現れたのが関羽であった。文醜は関羽と三合打ち合ったところで怖気づき、馬を返して逃げたが、赤兎馬に追いつかれ、背後から青龍刀で斬られた。河北の双璧は、同じ刀によって続けざまに散った。

名場面

1

磐河の趙雲との死闘

磐河の戦いで公孫瓚の軍を打ち破った文醜は、逃げる公孫瓚を追って谷底まで迫った。公孫瓚が転げ落ち、まさに討ち取られようとしたとき、一人の若武者が槍を手に飛び込んできた。身の丈八尺、濃い眉に大きな目。文醜はその若者と五、六十合を打ち合ったが、勝負はつかなかった。公孫瓚の援軍が来ると文醜は馬を返した。この若者こそ趙雲である。趙雲と互角に渡り合った最初の男として、文醜の名は演義に刻まれた。

2

延津の最期

延津で曹操の兵糧と馬を奪って喜ぶ兵を見て、文醜は「敵の罠だ」と叫んだが遅かった。曹操軍の奇襲で河北の兵は総崩れとなる。文醜は踏みとどまって張遼の馬を射倒し、徐晃と三十合打ち合って退けた。そこへ赤い馬に乗った赤ら顔の将が、青龍刀をかざして現れた。顔良を斬った関羽である。文醜は三合で恐れをなして逃げたが、赤兎馬の足には勝てなかった。背後から振り下ろされた一刀が、河北第二の猛将を馬から落とした。

「顔良とは兄弟も同然、この仇は必ず討つ」

文醜

正史ではどうだった?

正史でも延津の戦いで曹操の輜重を餌にした作戦にかかって敗死した点は同じであるが、関羽が斬ったという記述はない。曹操の騎兵の乱戦の中で戦死したとされる。顔良の仇討ちとして出陣したことや、趙雲との一騎打ちは演義の創作で、文醜の個人的な逸話はほとんど残っていない。