三三国志 英雄図鑑
群雄西涼の太守

馬騰ばとう 字・寿成

漢室に忠を尽くし、曹操に討たれた馬超の父

?〜212年#西涼#忠義#馬超の父
統率武力知力政治魅力7885555075

人物

西涼を本拠とする勇将で、馬超の父である。伏波将軍馬援の末裔を名乗り、母は羌族の女性で、辺境の民の信望が厚かった。身の丈八尺の巨漢で勇猛だったが、気性は穏やかで人望があったと伝わる。韓遂と義兄弟の契りを結んで西涼に勢力を張り、董卓が長安を牛耳ると李傕らと戦い、また献帝を長安から救おうとして兵を挙げた。許に迎えられた献帝が衣帯の詔を下すと、董承・劉備とともに曹操討伐の盟約に名を連ね、西涼に戻って機をうかがった。しかし曹操が「南征の先鋒に」と偽って都へ呼び寄せると、馬騰は黄奎とともに曹操暗殺を企てて発覚し、息子の馬休・馬鉄もろとも処刑された。残された馬超が父の仇を討たんと潼関に攻め寄せ、曹操を髭を切り袍を捨てて逃げるほどに追い詰めることになる。息子の怒りの源となった、漢室への一途な忠臣である。

名場面

1

衣帯の詔に名を連ねる

許都で董承から衣帯の詔を見せられた馬騰は、怒りに髪を逆立てて「曹賊めを討たずして何が漢の臣か」と叫んだ。そして同志の名を記す義状に真っ先に筆を取り、「劉備殿も必ずや加わるはずだ」と言って劉備を仲間に引き入れた。計画は後に露見するが、馬騰はすでに西涼に戻っていて難を逃れる。十年以上経っても馬騰の心は変わらず、再び都に上って最後の勝負に出ることになる。

2

許都の最期

曹操に呼ばれて許都に上った馬騰は、黄奎と組んで曹操暗殺を企てた。だが黄奎の妾の密告で計画は漏れ、閲兵と偽って招かれた馬騰は曹操の伏兵に囲まれた。馬騰は息子たちとともに奮戦したが、矢の雨に馬を射られて捕らえられた。曹操の前に引き出されても「漢の忠臣が逆賊を討って何が悪い」と罵り続け、息子の馬休・馬鉄とともに斬られた。父の死の知らせは西涼の馬超に届き、復讐の火を点けた。

「漢の忠臣が逆賊を討って、何が悪い」

馬騰

正史ではどうだった?

正史では順序が逆で、馬騰が入朝して処刑されたのは、馬超が潼関で曹操に敗れた後である。馬超の挙兵が原因で一族が処刑されたことになり、演義は父の仇を討つ孝子として馬超を描くために順序を入れ替えた。衣帯の詔に加わった記録もない。韓遂とは義兄弟から宿敵に変わり、互いに争った。